「金をはずむ方に武器弾薬を売る!」戦争成金になった武器商人の哲学
戦争をするには武器が必要だ。それを調達するのは、昔から「死の商人」と言われる武器商人だった。彼らは戦争の危機を煽り、国防の必要を訴えるとともに、「愛国者」として政治家に取り入った。鉄砲から核兵器まで売り捌き、巨万の富を得てきた戦争成金の哲学とは? ここでは、『死の商人』(岡倉古志郎著、講談社学術文庫)から引用する。 [写真]レット・バトラー
『風とともに去りぬ』の武器商人
---------- 右手に陣取るは外国製の大砲 左手に陣取るは外国製の大砲 前方の敵陣からこちらを向くのも外国製の大砲 いっせいに火ぶた切り、天地とどろく ――クリミヤ戦争をうたった詩から ---------- あなたは、たぶん、マーガレット・ミッチェル女史の名作『風とともに去りぬ』を読んだことがあるだろう。あるいは、豪華版の天然色映画「風とともに去りぬ」を観たことがあるだろう。 そのあなたにとっては、一八六四年九月、南軍の要衝ジョージア州アトランタ市が陥落するあのクライマックスの情景は、よもや忘れられまい。砲煙弾雨と火焰に包まれたアトランタの地獄絵図のなかで燃えあがったスカーレットとレットとの灼熱の恋のいきさつは、「風とともに去りぬ」全巻のなかでの白眉である。 だが、あなたは、このどぎついクライマックスの印象にうたれるあまり、その何ページか前にある、ひじょうに興味深いくだりを、忘れてしまっておられるかもしれない。しかし、いま、われわれが思い出さねばならないのは、このクライマックスを盛りあげて行く過程に置かれた一つのエピソードなのである。そのエピソードというのはこうだ――
戦争は近代資本主義の精神を育んだ
アトランタ市陥落直前のむしあつい夏の夜のことである。アトランタ市では、上流社会の婦人たちの主催で、南軍軍事資金募集を目的とするダンス・パーティーが催された。奴隷所有者、政治家、軍人などが、われもわれもと財布のひもをゆるめて、美しいパートナーと踊るためにチケットを買った。 もっとも美しい「アトランタの女王」スカーレット・オハラと踊る特権は、ついに「競売」に付せられたが、セリは三〇ドル、五〇ドル、一〇〇ドルとずんずんあがって行った……一五〇ドル! 落ちた! スカーレットを落したのは、およそ「紳士」らしくない船長のレット・バトラーだった。レットは、惜しげもなく一五〇ドルの札ビラを切り、この情熱の女を抱いて夜半まで荒っぽく踊った……。 バトラー船長は「戦争成金」だった。だから、「戦争成金」にふさわしい、たくましい「哲学」や「モラル」を持っていた。バトラーにとって、たとえスカーレットが「家柄の娘」、「貴族の女」であろうと、それは金で買える「夜の女」とちっとも変りはなかった。「一五〇ドルの正札をぶらさげた商品」でしかなかった。このバトラーの女性観は、そのまま、資本主義社会の女性観である。 バトラーは、「金もうけ」の点にかけても、徹底した「哲学」と「モラル」の持ちぬしである――「俺は、金もうけのためなら、北軍、南軍、どっちにでもいい、うんと金をはずむ方に武器弾薬を売るのだ」。この「哲学」をたくましく実践することによって、バトラーのふところは、戦争とともに肥ってきたのであった。むろん、スカーレットをもふくめて、アトランタ市の貴族的・地主的な上流社会は、このバトラーの「哲学」や「モラル」を「不忠誠」、「不徳義」、「二股膏薬」として指弾した。 だが、これは、時代錯誤というべきであったろう。バトラーの物差しは「資本主義」の物差しだったが、アトランタ市の人々のそれは「封建主義」のそれだった。そして、南北戦争を境界線にして、時代は、「封建主義」の没落、「資本主義」の発展を容赦なく切りひらきつつあったからである。「死の商人」としてのバトラーの「哲学」は、「資本主義」の物差しにピッタリかなっていたのである。ウェルナー・ゾンバルト教授が、「戦争は近代資本主義の精神を育んだ」(Werner Sombart: “Kriegund Kapitalismus”, München, 1913)といったのは、このようなことを指したものであろうか。
学術文庫&選書メチエ編集部