原作ものドラマにあって然るべき脚色とは 『放課後カルテ』原作からの変更にみる“誠実さ”
小学校、中学校、高校と、人生で何度かAEDの講習を受けたことがある。しかし、心肺停止で倒れた人を前にし、自分が行動しなければ人が死ぬという状況を前にして、平常心で慣れない救命活動をできる自信は全くない。そんな状況を想像するだけで、身が縮む思いだ。『放課後カルテ』第2話はそんなAEDを使用する側の恐怖心を、10分近くの長回しで克明に描き出した。その誠実さに感動し、しっかり見届けなければと姿勢を正したのを覚えている。 【写真】場面カット(複数あり) 『放課後カルテ』の原作は、2011年から2018年まで『BE・LOVE』(講談社)に連載されていた同名漫画。『コウノドリ』(TBS系)や『Shrink―精神科医ヨワイ―』(NHK総合)など、同じく漫画を原作とし、特定の診療科を扱い、特有の病気や患者の事情を描くドラマは数多く存在する。『放課後カルテ』は小学校を舞台にしているが、広義の意味では医療ドラマに属する。主人公・牧野(松下洸平)を養護教諭ではなく学校医として医療行為もできる設定にしたことでより深く子供たちの健康問題に介入でき、過去に小児科医として病院に務めていた設定にしたことで、小学校にいる子供だけでなく病気で学校に通えない子供も取り上げることを可能にしている。幅広く子供の病や事情を描いている作品だ。 第1話で描かれたナルコレプシーによって本人の意思に反して居眠りをしてしまうゆき(増田梨沙)や、度胸試しの最中に木から落ち、緊張性気胸になった勇吾(湯田幸希)がそうであったように、子供たちは学校という狭いコミュニティのなかで“普通”や“常識”を求められ、自分の健康状態を引け目に感じたり、自分の命を晒したりしてしまう子がたくさんいる。『放課後カルテ』からは、病や健康に対する子供たちの感情面にも着目し、学校という特殊な環境だからこそ起きる医療ドラマを描きたいという意志が感じられる。 原作のエピソードを丁寧に繋ぎ、テーマを際立たせる脚色もその証だ。第1話で描かれたナルコレプシーとツツガムシ病(原作ではマダニを原因としたライム病)は、どちらも第1巻のエピソードであるのに対し、第2話の木から落ちたことを原因とする緊張性気胸は第2巻のエピソード、AEDによる救命救急は第12巻のエピソードと少し距離がある。第2話は、命の大切さを教えるという観点から、原作では距離のある2つのエピソードを、あえて組み合わせていることが推測できる。 連載が終わっているとはいえ、原作全16巻すべてのエピソードをそのまま映像化していくことは難しい。しかし、この作品には伝えるべきテーマと描くべきエピソードがある。だからこそ、一つのテーマを示すためにエピソードを選択し、それぞれを繋ぐ脚色を行っているのだ。結果的に、第2話はそのまま保健体育の授業で教材として使えるのではと思うほど、意義深いエピソードに仕上がった。この作品を通して伝えるべきことに真摯に向き合った結果と言えるだろう。 原作がある作品の映像化にはさまざまな意見がある。『放課後カルテ』も原作のAED使用回にあった児童のエピソードを描かずに、冴島啓(岡本望来)のエピソードにくっつけたことに不満を覚える原作ファンもいるかもしれない。それでも、2つのエピソードを繋げて構成し直したことで、“命の大切さ”という本作の大事なテーマが浮かび上がったのも事実だ。映像化において何を描き、何を描かないかという取捨選択を避けられないなかで、原作の“スピリット”を守るためにできることに向き合う覚悟が感じられる。 第2話は『放課後カルテ』が描きたいものが詰まった名刺のような回だった。原作の魂を受け取り、ドラマだからできる見せ方に落とし込んだ成果が、啓がAEDを使う10分間のシーンに詰まっている。『放課後カルテ』の脚本や演出には、原作が持つ“命や健康の尊さ”というテーマを、ドラマを通して伝えようという強い意志が宿っているのだ。
古澤椋子