20歳で両足と右手を失った山田千紘さん 富士山頂上で見た景色の本当の意味
山田さんが事故にあったのは2012年7月24日で20歳の時だった。ケーブルテレビ局の営業職として働き始めてすぐの頃だった。日中の業務を終え、先輩との飲み会に参加した後、終電間際の電車に乗ると疲労とアルコールの影響で寝込んでしまった。この頃、仕事で早く結果を出そうと連日連夜働き続けるうちに、体調を崩していたことも影響していたのかもしれない。気がつくと、自宅の最寄り駅は通り過ぎ、JR京浜東北線磯子駅で駅員に起こされて電車を降りた。その後も駅のプラットホームでもうつらうつらして電車に乗り込もうとした時、線路に転落。そこにやってきた電車と衝突した。 「事故の日のことは今もあまり覚えていないのですが、意識が回復すると右手がないことに気づきました。夢かなと思って、それで顔を洗おうと思ったらベッドから転げ落ちて、足もないことに気づきました。あまりにも痛くて悲鳴をあげたんですけど、それと同時に、これは現実なんだと知らされました」 考えたことは、「人生終わったな」。絶望に打ちひしがれる毎日だったという。 それでも、自分のことを懸命に世話をしてくれる医師や看護師、それまでと変わらなく接してくれる友人や家族に支えられて、前を向いて進むことを決意した。 「両足と右手を失ったけど、僕も、他の人も、みんな同じ時間が流れているんですよね。1日が24時間であることは同じ。それなら、誰もが平等に与えられた24時間を、より楽しく充実させた方が人生は豊かになる。そう思って生きることにしました」
もともと、目標を立てて、それを達成するために努力することが好きな性格だった。事故にあったのも、新しい仕事に熱中しすぎて体調を崩し、そんな時にお酒を飲んでしまったことが原因だった。でも、後悔してもしょうがない。事故で大きなケガをして、たくさんの人に助けられた。これからの人生は「誰かのためになりたい」と思うようになった。 それでも、新しい目標を見つけるまでの道のりは厳しかった。退院後に挑戦したのは、パラスポーツ選手になることだった。事故が起きた7月24日は、東京2020オリンピックの開会式と同じ日だ。オリンピックの後に開催されるパラリンピックに出場できれば、いろんな人に新しい自分の姿を見せることができて、勇気を与えられるかもしれない。そう考えて、パラスポーツに取り組むことにした。 まずは、両足と右手がなくても競技に問題がなさそうな水泳に挑戦してみた。ところが、水に入っても体が浮かない。左手1本でクロールしてもうまく前に進まない。泳げるようになったとしても、世界で戦えるスポーツ選手になるのは難しかった。 次に試したのは車いすラグビーだ。病院でも車いすに乗ることは得意で、自信があった。それがいざ競技をしてみると、高速で動く車いすを左手1本でコントロールするのは容易ではなかった。正面方向に進みたくても、少しずつカーブしてしまう。時には一回転してしまうこともあった。さらに問題だったのが、障害のクラス分けだった。 車いすラグビーは、選手の障害の程度によって0.5(重い)から3.5(軽い)に0.5点刻みで段階に分類される。試合では、1チーム4人の合計点数を8点以内にしなければならない。 「僕の場合、体幹が残っているのと、右腕の上肢があるので、クラス分けでは2.5か3.0になってしまう。この点数の選手は、チームの中心選手となって点取り役も求められます。こんな体では、とても無理でした」