小澤征爾さんの死を受け、“第二の故郷”ボストンの交響楽団が追悼演奏「多大な才能を印象付けた最初のアジア人指揮者」
改革に批判も…残した遺産は生き続ける
2020年、ボストンは小澤の誕生日の9月1日を「セイジ・オザワ・デー」とした。ロイターによれば、このとき小澤は、「どこへ行こうと、ボストンは僕の心の一部だ」とし、ボストンでの日々が人生においてとても大切なものだったと話している。 もっとも、この時代が常に順風満帆だったわけではなく、BSOやタングルウッドでは、大きな批判が出たこともあった。ラジオ局WNPRによれば、1996年、小澤はタングルウッド音楽センターがフォーカスとエネルギーを失っていると感じ、改革を決断。古株のディレクターを解雇したことで、何人かの著名な教師が抗議のために辞めてしまった。 当時のマサチューセッツ州の日刊紙、ケープコッド・タイムズによれば、批評家たちは小澤が独裁的で、アカデミーを自己満足的なクラブにしていると批判。これがBSOを退任する理由になったという憶測も飛んだ。当時を回想するフォッグ氏は、「困難な時期だったが、アカデミーに新しい方向性が見いだされ、それが今日につながっている」とWNPRに述べている。 ガーディアン紙によれば、90年代半ばにはBSOの反体制的な音楽家グループから、小澤の一流の指揮者としての資質に疑問を呈すニュースレターも出された。士気の急落にもつながったとされるが、批評家のエレン・ファイファー氏は、それでも音楽大使として中国公演などを成功させた小澤が、楽団の外観を変えたとラジオ局WBURに語っている。 訃報を受け、BSOは追悼の演奏会を開催。また声明の中で、小澤を指揮台でのバレエのような優雅さと天才的な記憶力を併せ持つ天才と称え、彼の遺産は思い出と彼が残したレコーディングを通して生き続けるとした。
文:山川真智子