米軍「B-29」を撃墜しまくった日本戦闘機「月光」、その「ヤバすぎる実力」と「悲劇すぎる末路」…!
ラバウルの月夜、ナイター初出場の打者がホームラン
昭和16年5月に十三試双戦は初めて空を飛んだが、銃がなくて戦闘機としての実用性なしと判断され、用途を失った不安定な状態にあった。走塁が速く、打撃がきいて、守備の堅い選手に、いたずらに二軍のベンチを温めさせておくような惜しい状況だった。 そんな中、太平洋戦争が勃発し、「二式陸偵」の制式名称を与えられ、長距離高速偵察機としての量産命令が下った。ただ、陸偵は所詮、便利な海上飛脚にすぎず、あまりパッとした芽も出なかった。 相次ぐ改造計画に、工場内では「Gのナナバケ(七変化)」と悪口をいうむきも出始める中、ナイター初出場の打者がホームランをかっ飛ばすような幸運を拾い上げたのだ。日本の戦局が不利に変わり始めた昭和18年5月、二式陸偵がラバウルで夜襲のB-17を撃墜したのである。ラバウル第二五一航空隊司令に新任した小園安名中佐が考案した後部胴体に装着した「斜め銃」による戦果だった。ほどなく海軍から「二式陸偵に、至急斜め銃をつけて夜間戦闘機に改装せよ」との命令が工場にきた。呼び名は「月光」(J1N1-S)。ラバウル初陣の月夜に由来する。
ナナバケでエースに、そしてB-29との死闘
正式に夜間戦闘機として生産されるようになった「月光」は、後席がなくなって二座となり、背中の段が減って一段とスマートになったが、斜め前方にも二〇ミリ固定銃をつけたので、上下に角を出した珍しい姿になった。 しかし戦況は悪化の一途をたどり、米国内ではB-17に変わる新重爆撃機B-29がどしどし生産され、昭和19年6月にはこの新しい空の要塞B-29が北九州の上空に姿を見せるようになった。陸海軍の防空戦闘機隊はB-29の大編隊を邀撃したが、その中で最も目覚ましい活躍をみせたのが「月光」だった。バットを頭上にかまえて、ヒットを打ちまくる背番号「S」は、一躍ナイターのスターともてはやされた。 ただ、このころが「月光」のピークだった。性能のいい新鋭B-29相手の戦いでは、「月光」の老いの弱さは隠しきれず、速度の速い相手には追いすがるだけで精いっぱいだった。使えない試作双発戦闘機から双発陸上偵察機へと「変身」した機体が、斜め銃を装備してまたしても「変身」。昭和18年8月に夜間戦闘機「月光」として制式化され、やがて日本の空を守るため「未来から来た銀色の怪鳥」ことB-29との死闘を演じたことは歴史に長く刻まれる。
潮書房光人新社