日本育ちの元台湾代表がゴールドマンにたどり着いたワケ
アスリートでありながら投資家としても活躍している「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。 今回は、コントラリアン(逆張り投資家)として5兆円を運用する英国の投資ファンド「オービス・インベストメンツ」の日本法人社長であり、サッカーUー20チャイニーズ・タイペイ(台湾)代表、同フットサル代表として活躍した経験のある時国司さんにお話を伺いました。 サッカー選手としてのキャリアを経て起業したり、ビジネスマンに転身して投資やマネーに携わる例は少なくありませんが、サッカーと投資の両方での成功を10代の頃から真剣に考え、実践した人物というのはごくわずか。オービス・インベストメンツの日本法人社長・時国司さんは数少ない成功例と言えるのではないでしょうか。 台湾人の父と日本人の母を持つ時国さんは1981年に台湾で生まれ、1歳で日本に移り住み、川崎市内の小学校に入学。教育は主に日本で受けたといいます。 そうした中、「キャプテン翼」や「オフサイド」などの漫画に影響を受け、サッカーをはじめ、「いずれは台湾代表になりたい」という思いを描き、Uー18台湾代表を勝ち取ります。 そして、2001年Uー20ワールドユース(現Uー20W杯)のアジア予選に当たる2000年のUー19アジアユース選手権1次予選(中国)に参加。世界大会切符はつかめなかったものの、そこで1つの目標を達成したといいます。 これを機にいったんサッカーに区切りをつけ、大学時代は「ビジネスで成功する」というもう1つの夢に邁進。卒業後はゴールドマンサックス証券に入社し、企業分析の手腕を磨き、投資スキルを体得しました。 そんな異色の経歴を持つ時国さんが10代から20代にかけてサッカーとマネーにどう向き合ったのか、お話しいただきました。 ■中学時代から台湾協会に「代表入り熱望」の手紙を送る ーーサッカーをはじめたきっかけは何でしょうか。 時国:川崎市の小学校に通っていたんですが、入学してすぐ地域の少年団チームの紅白戦を観戦していたら、「Bチームの紅白戦に出てみたら?」と言われたんです。 それで参加してみたらAチーム相手にいきなりハットトリックを達成したんです。そこから僕はずっとFWですね。点取り屋としてゴールに突き進んできました(笑)。 ーー母親は日本人ということで、日本代表も目指せたと思います。なぜ台湾代表を目指されたのでしょうか。 時国:祖父が台湾の軍人で、蒋介石の側近、将軍という役職でした。大伯父も空軍士官学校を創設した人で、「国のために何かをしたい」という思いが幼い頃から強かったんです。 スポーツでも国に貢献できるという意識はありましたし、最初から台湾代表一択でした。 ーーただ日本で生活しながら、台湾代表を目指すのは簡単ではありませんよね。 時国:そうですね。まず日本でプレーしている選手が海外の代表を目指す場合、言葉のハードルがあると思います。僕自身は幼少期に日本に来て、日本語で教育を受けていたのですが、なぜか中国語が話せるんです(笑)。 特別な言語教育を受けたことはないんですが、そこは自分でも不思議。自分の大きなアドバンテージになりました。 もう1つは日本でプレーしている選手を台湾サッカー協会がどう発掘するかという問題があります。僕はそれをクリアするため、中学に入ってから「日本在住だが、台湾代表になりたい」という手紙を書き、返信用のお金を入れて、協会に何通も送ったんです。 そんなことをする中学生はいないでしょうから、先方も驚いたと思います。あるとき、ついに返事が来たんですが、その内容は「台湾のUー15代表になりたければ、台湾の学校に入学してください」というツレない回答でしたね(笑)。 ■連絡し続け「Uー19台湾代表」に選出 ーー時国さんは当時、慶応義塾湘南藤沢中等部に在籍していたんですよね。 時国:はい。サッカーの年代別代表は中学・高校が中心なので、6年間はプレーに集中できるように中学受験を選んだんです。 現在はサイバーエージェント(4751)が親会社のFC町田ゼルビアの下部組織であるFC町田ユースで高校1年生までプレーしました。のちに日本代表として活躍した阿部勇樹選手(現浦和レッズユース監督)や佐藤寿人選手(解説者)らを擁するジェフユナイテッド千葉ユースとも対戦したことがあります。 そういう環境にいたので、台湾の高校に転校するつもりはまったくありませんでした。高校2年生からは慶応義塾湘南藤沢高等部のサッカー部に移って、高校サッカー選手権出場を目指していましたし。 そういう自分が台湾のUー19代表に入るのは至難の業。それでも中学時代同様に手紙を送り続けていたら「台湾Uー18代表候補合宿でキミを見てもいい。その前段階として、台北県代表の一員になって国体に出てほしい」という連絡がきたんです。 高校3年のときでしたが、学校を休んで台湾に向かい、自分がキャプテンになるつもりで練習から思い切り声を出し、強度の高いプレーを見せました。 さらに「試合に出たら毎回1点以上取る」とターゲットを設定しました。実際に国体の試合でその目標を達成し、Uー19代表候補に残り、最終選考で代表に残ったんです。しかもキャプテンに指名された。人生で初めて、自分で立てた壮大な仮説を検証した経験でした。 ーーその後、2000年のUー19アジアユース選手権1次予選に出場されました。 時国:中国・四川が会場で、中国、インドネシア、ミャンマー、台湾の4カ国が参加。1チームが最終予選に進むという形でした。歴史的にも複雑な関係性の中国戦は注目度も高く、2万人の大観衆が集まる中の完全アウェイでした。 銃を持った警官隊がスタジアム内に多数立っている物々しい雰囲気の試合で、台湾が先制したんですが、最終的には1-3で逆転負けを喫しました。 世界大会に行く夢はついえましたが、僕はその瞬間に「やれることはやり切った」というスッキリした気持ちになれた。そこからはビジネスに切り替えようと思いました。 ■大学卒業後、ゴールドマン・サックスへ入社 ーー慶応義塾大学に進んでからはどんな勉強をしたのでしょうか。 時国:経済学部で貸借対照表の読み方を学んだり、経済理論を学んだりと、マネーに関する幅広く知識を得ました。僕は「衣食住足りてこそ礼節を知る」という言葉のとおり、お金があってこそ家族を養い、幸せにできるという価値観を幼少期から持っていました。だからこそ、早くから経済的自由を勝ち取りたいという意識が強かったんです。 自分が高校生だった1998年にアジア通貨危機があったのも大きかった。ジョージ・ソロスという1人の投資家が運営するファンドがアジア経済を脅かしているという話を日本経済新聞で読み、「いったい、どうなっているのか」と非常に驚きました。 そこでマネーに対しての興味が一気に高まり、高校時の卒論でもヘッジファンドに関する研究をまとめました。 ーー卒業後はゴールドマン・サックス証券へ入社しました。 時国:実は最初からゴールドマン・サックス証券に行こうと決めていたわけではなく、モルガン・スタンレー( MS )やソニーグループ(6758)や野村総合研究所(4307)、オリックス(8591)、旭化成(3407)、WOWOW(4839)、三菱商事(8058)など10社以上の多彩な業種でインターンを経験しました。 いろんな業界を見て、自分がどこに行けば早期にFIREできるのかを考えた結果、そういう進路に至りました。 ゴールドマン・サックスの中でも、入った部署もよかったですね。戦略投資部という、自己勘定投資の部署でした。投資銀行と一口に言っても1200人もいて、色々な部署に分かれていました。その中で、僕ら25人からなる戦略投資部だけは、ゴールドマン・サックス自社のお金を使って投資をするチームでした。 入社当初は、主に不良債権のバルク買いという異種独特な業務を担当し、膨大な数のセカンダリー・ローンを1本1本プライシングしたことが、後々の企業価値分析の足腰を鍛えてくれたと感じています。 破綻したゴルフ場を買って、一括運営してコストを下げバリューを出すといったビジネスも非常に興味深かったですし、お金が生きる仕事だと心からやりがいを感じていました。そうやって投資スキルを体得しつつ、人生の安心をつくる大きな要素であるマネーを稼ぐことができれば理想的です。僕の20代はそういう形で進んでいきました。 サッカーで台湾年代別代表まで上り詰め、目標達成後には素早い切り替えでマネーのスペシャリストを目指した時国さん。サッカーとFIREという2つの夢を叶えるべく、10~20代をムダなく過ごした彼のアグレッシブさと冷静さには驚かされるばかり。大いに参考にしたいものです。 そんな時国さんに次回はゴールドマン・サックス証券から先のサッカーとビジネスの歩みを語っていただきます。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子