元19(ジューク)・岩瀬敬吾「売れるのはわかってました。生意気ですよね(笑)」解散にもつながる20歳のころのカン違いと違和感の正体
2024ニッポンの成人#6《前編》
ミュージシャンの岩瀬敬吾にとって20歳のころといえば、高校時代から共に活動していた岡平健治とイラストレーター・326と組んだユニット、19でメジャーデビューを果たした年。当時、どのような気持ちで音楽や人生に向き合っていたのだろうか。「20歳の自分」を振り返ってもらった。 【画像】19時代のギャラで買った、今でも現役の車(ボルボ940)
世間知らずだった20歳。『紙ヒコーキ』が売れてホッとした
――岩瀬さんが20歳のころは、ユニットの19としてメジャーデビューをされたころですよね。そもそも3人で19を始めたきっかけは何だったのでしょうか。 岩瀬(以下同) 高校生のころ、(岡平)健治くんと一緒に「少年フレンド」というユニットを組んでいて。高校卒業後、僕が先に東京に出ていたんですけど、健治くんも半年ぐらい遅れて東京に来て、レコード会社の育成に所属していたんですね。ふたりでまた活動をする中で、326くんと出会ったんです。歳も近いから仲よくなって、勢いに近い形でユニットを組みました。 ――1998年にデビューして、1999年の『あの紙ヒコーキ くもり空わって』で空前の大ブレイク…自分たちの曲が受け入れられていくことを、どう受け取っていましたか? 売れるのはわかっていたんですよ。自分の曲に自信があったので、世の中に広く聴いてもらえる機会をもらったんだから、必ず売れるという確信がありました。 ただ、ファーストシングルはそこまで売れなかったんですよね、当時の初動が1万枚かな…2枚目も最初はそのくらいだったのが、だんだんチャートが上がっていって。だから、ホッとしました。生意気ですよね(笑)。 でもやっぱり、世間知らずでしたね。18歳で東京に出てきて、社会のルールも知らない子どものままなのに、大人は笑顔で接してくれるので、僕たちはそれでも許されるんだと思って過ごした数年間でした。勘違いしていたと思いますね。
ちやほやされるのは不安でしかなかった
――特殊な20歳だったんですね。 それが普通だと思っちゃってましたね。地元の友達は大学生だったり働いていたりする中で、自分はテレビにも出て、目立つことをしているっていう優越感もあったと思います。でも、一方でそんな状況に対する違和感もあったし、ちやほやされるのも不安でしかなくて。考え方を修正しなきゃいけないなとは思っていました。 ――その違和感や不安はどこから来ていたんでしょうか? 20歳のときにそういう世界に足を突っ込んで売れた僕が、その後も同じように売れ続けていたら、その感覚が自分のスタンダードになったのかもしれないけど、僕は、そういう変化に臆病だったので……でも当時、毎日、答えは違いましたね。 ――岩瀬さんはテレビ番組などで、当時、契約の形式が変わったらいきなり大金が振り込まれたというお話もされていましたが、お金の使い方も変わりましたか? あまり契約状況がよくなかったこともあって、そこまで大きな買い物はしていないですね。両親と自分用に車は買いました。ボルボ940という車を4年落ちで買ったんですが、今も乗っています。 今の妻が高校のときから一緒なんですけど、しっかりした人なので、僕がお金を使い過ぎると、「なんで同じ服、2枚も買うの?」って、釘を刺してくれていました(笑)。