『ギザギザハートの子守唄』本当は真田広之が歌う曲だった⁉︎ チェッカーズが「泣くほど嫌だった」デビュー曲の裏側
そもそも『ギザギザハートの子守唄』は真田広之の曲だった!?︎
『ギザギザハートの子守唄』にはインパクトも普遍性もあり、聴き終わった後には切ない印象が残る。さらに50年代後半に日本で巻き起こったロカビリー・ブームにタイムスリップするように、不良少年が魅力的だった時代の影が見え隠れする。 もとはといえば、芹澤が真田広之のために康珍化(かん ちんふぁ)の歌詞を得て作った曲だったが、ボツになったにもかかわらず大事に温めてきたのは、「楽曲に相応しい歌い手に出会えれば、きっとおもしろい現象が起こる」と信じていたからだろう。 結果的には思惑通りになったものの、1983年9月21日にレコードが発売になった当初はマーケットからの反応がほとんどなく、さすがに誰もが不安を感じずにはいられなかったらしい。 作詞家の売野雅勇は、1983年11月にレコード会社のディレクターの結婚披露宴で、チェッカーズのメンバーたちとレコーディング以来の再会をした。その時、メンバーの何人かが話したそうな雰囲気で近づいてきたという。 「まずは、デビューおめでとう。遅くなったけど」 「デビューしたのはいいんですけど、これからどうなっちゃうんでしょうね?」 売野はすでに3曲のシングルを完成させてあるのだから、悲観しなくてもいいんじゃないかと、指を折りながら答えた。年が明けた1月には売野が作詞した『涙のリクエスト』が発売される予定になっていて、それは絶対に売れるだろうという予感があったのだ。 「次のシングルは売れるんでしょうか?」と、(鶴久)政治君が不安そうな目つきをして訊いた。「オレたち、売れないと、久留米に帰らなくちゃならないんです。働かなくちゃいけないし、ぼくんちは八百屋だから、八百屋にならなきゃなんです」 「八百屋か、八百屋も悪くないんじゃない」と、ぼくは言った。 「チェッカーズの方が、千倍いいですよ!」と、政治君が笑った。 それからおよそ4か月後、チェッカーズは日本中の女の子たちを巻き込むかのような人気を獲得し、社会現象になるほどのブレイクを果たすのである。 文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/1983年9月21日発売『ギザギザハートの子守唄』(キャニオン・レコード) 参考・引用 ・『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(売野雅勇/朝日新聞出版) ・夕刊フジ 『「少女A」作曲家激白 ヒット曲舞台裏』(2018年6月26日)
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