【光る君へ】一条天皇が最期に思い浮かべた「君」は定子か彰子か? 道長と行成で異なる見解を詳細に書き残したワケ
NHK大河ドラマ『光る君へ』第40回「君を置きて」では、ついに一条天皇(演:塩野瑛久)が崩御。その辞世の歌は涙を誘うばかりだった。さて、この日のタイトルにもなった「君」は亡き皇后・定子(演:高畑充希)か中宮彰子(演:見上愛)どちらだったのだろうか。 ■「中宮彰子説」を推す道長と「皇后定子説」を推す行成 寛和2年(986)に即位して以来、25年に渡って天皇という地位にあり続けた一条天皇だったが、病に侵されるようになり、寛弘8年(1011)6月13日に時の東宮・居貞親王に譲位して太上天皇(譲位した天皇の尊号)となった。同月19日に出家した後、22日に崩御している。 辞世の歌について、藤原道長が記した『御堂関白記』には以下のように記されている。 「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」 一方、藤原行成が記した『権記』には次のように記されている。 「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」 いずれも端的にまとめてしまえば「露のような儚い我が身が、あなたを残したままで現世を去ることが耐え難い悲しみであることをわかってください(『御堂関白記』)/あなたを残したままで現世を去ることこそが悲しいのです(『権記』)」という内容になる。 では、意識が朦朧とするなか一条天皇が思い浮かべていたのは誰か。この問題は多くの解釈があり、『栄華物語』などでも微妙に歌の文言が異なる。もはや正しい回答を求めることは難しい。しかし、道長は娘である中宮彰子を、行成は亡き皇后である定子を想定していたことがそれぞれの日記ではっきりと書かれているのが興味深い。 道長は『御堂関白記』のなかでこの歌が詠まれた状況として次のように内容を書き残している。「この夜、上皇さま(一条天皇)のご容態が大層悪かったものの、床の中で御身体を起こしてお座りになっていた。ちょうど中宮さま(彰子)が几帳の陰にいらっしゃったために上皇さまが仰った」と。そして「歌を詠んだ後に再び意識を失った際、一部始終を目にした人々が涙を流す様子はさながら雨が降っているかのようだった」というのである。 一方行成の方は『権記』において歌を書き記した後に「其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し」と書いている。つまり「その志は亡き皇后・定子に寄せたものであるけれど、はっきりその意図を知ることはできない」というのである。 一条天皇は后である定子が存命だった頃、彼女の実家が没落してもなお愛し抜いたが、その死後には中宮彰子との間に2人の親王が誕生している。彰子が心を込めて定子の遺児である敦康親王を養育したことも重々承知していたからこそ、彼女のことも重んじただろう。よって、道長からしてみれば約10年も前に亡くなった后ではなく、彰子を思い描いて当然であると考えていただろうし、例え定子である可能性に思い至っても、それを書くようなことはしなかったに違いない。 対して行成は長徳元年(995)に蔵人頭に抜擢されて以降、出世を重ねつつ一条天皇の傍にいた人物だ。一条天皇からの信頼も厚かった。定子の運命が暗転した兄の伊周・隆家による「長徳の変」が発生したのは長徳2年(996)正月、つまり行成はこの事件に端を発する一条天皇と定子の悲劇をかなり近い場所から見続けていたことになる。『権記』には、定子が亡くなったことへの深い悲しみを行成に対して吐露する一条天皇の姿も記されていたほどだ。 行成にとってはやはり、どれだけの時を経ても一条天皇がその心に定子への愛を宿し続けているように思えたのかもしれない。「けれどはっきりその意図を知ることはできない」とも書くあたり、彼の生真面目さが垣間見える。 <参考> ■『御堂関白記 藤原道長の日記』ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) ■『権記』ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
歴史人編集部