現場指揮官に自決を強要! 85年前、ノモンハンの「敗北」で露呈した軍幹部の「将器」と無責任。
負けた時、何を語り、いかに振る舞うか――。まさに人間の器が問われる場面である。生死のかかった戦争ともなれば、なおさらだ。ちょうど85年前の昭和14年(1939年)5月11日、日本の関東軍と極東ソ連軍がモンゴルの国境地帯で衝突して始まったノモンハン事件。4ヵ月にわたる激闘に敗れた日本の将兵たちには、上層部からのさらに苛酷な仕打ちが待っていた。ノモンハン事件の全貌を検証した秦郁彦氏の労作『明と暗のノモンハン戦史』(講談社学術文庫)には、残酷にして無責任な軍隊の現実も描かれている。 【写真】ノモンハン、非情の戦場
部下の「処罰」に燃える「敗軍の将」
ノモンハン事件は、日清・日露戦争以来、連戦連勝を誇っていた日本陸軍にとって、初めての「敗北体験」だった。日本側だけで死傷者2万人におよんだ戦場では、無断退却や命令への不服従、戦意喪失、捕虜の大量発生など、それまで陸軍が想定していなかった事象が多発していた。 戦闘の終結後、その責任をめぐって軍はどのような人事的処置をとったのか。『明と暗のノモンハン戦史』著者・秦郁彦氏の検証によれば、これらは従来の「事なかれ的人事」では間に合わず、軍法会議等による法的処分も適用されたが、最終的には多くが予備役編入や左遷気味の転補など微温的な行政処分ですまされてしまったという。 たとえば、事件の首謀者とされる少佐参謀の辻政信は「事実上の関東軍司令官」と評されるほど独断越権が目立ち、「免官させよ」という声もあった。にもかかわらず、参謀人事を握る大本営総務部長から「将来有用の人物だから」と陳情が来て、現役にふみとどまっている。しかし、その一方で――。 〈もっとも過酷な運命を強いられたのは捕虜交換で帰ってきた将兵であったろう。将校は事情の如何を問わず自決を強いられ、下士官兵は軍法会議にかけられて懲役や禁固刑を科せられた。超法規的処分と評してよいが、すべて内輪で処理され、新聞等を通じて国民に知らされることはなかった。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.354-355) なかでも中下級指揮官に、自決強要や免官、停職など、上級指揮官たちに比べて格段に重い処分者が並んだ。その多くは、昭和14年8月下旬に発生した「無断退却」の関係者だった。いずれも弾薬、食糧が尽き、通信も絶えた「明日は全滅か」という極限状況下で、「座して全滅するよりは離脱して再起を」と判断して撤退に踏み切った現場の指揮官たちだ。 しかし、この判断を認めず、彼らを軍法会議にかけてでも処罰しようと熱意を燃やしたのが、「敗軍の将」である第23師団長の小松原道太郎中将と、第6軍司令官の荻洲立兵中将である。 小松原らが、特に槍玉にあげたのが、井置栄一中佐と長谷部理叡大佐だった。しかし、結局この二人を処罰する軍法会議は開かれず、二人の死刑を断念した小松原が、代わりに思いついたのが「自決勧告」という方法だった。荻洲もこれに同意したとされる。 井置への自決勧告をめぐる第23師団幕僚会議で、師団長の小松原は「俺の師団が壊滅的打撃を受けたのは、井置中佐が過早にフイ高地を捨てたためである」とし、さらに「井置中佐には自決を勧告するのが至当であると思うが、諸君はどう思うか」と賛同を求めた。 これに対し「何とか憐憫の情を」、また「一命を助けてやることが武士の情ではないか」という声もあったが、小松原は「俺の師団が壊滅したのは」と前言をくり返しただけだった。