「スカイラインは、光り輝く存在でなくてはいけない」R32スカイライン開発主管・伊藤修令スペシャルインタビュー
富士精密工業、プリンス自動車、日産自動車。社名こそ変遷しつつも、それらの主力車種として君臨し続けてきたスカイライン。 そのスカイラインとともに富士精密時代から成長し、ついに歴史に残る名車・R32スカイラインを開発主管として生み出した伊藤修令さん。 伊藤さんに32スカイラインの開発経緯、そして自身の抱くスカイライン像についてうかがった。 【画像12枚】R32スカイラインの開発主管を務めた伊藤修令さんと、今も乗り続けている愛車のR32スカイラインGT-Rの各ショット スカイラインがスカイラインたる条件 「私が入社したのは富士精密の時代でした」と前置きしてから伊藤さんは、ご自身が描くスカイライン像についてこう続けてくれた。 「スカイラインのネーミングが、美しい山の稜線に由来することはよく知られていると思います。その名のとおり、すっきりとした無駄のない性能、機能のクルマであることを、初代ALSI系、2代目S50系とずっと見てきました。さらに言うなら、その時代の第一級の動力性能、運動性能を備えること、これもスカイラインがスカイラインたる条件だと考えていました」 S50系2代目スカイラインで誕生した2000GTは、凡庸な4ドアセダンがスポーツカーを凌駕する車両に変貌することを実証。世界にも類を見ない試みで、カテゴリーによる自動車のヒエラルキーを根本から覆すものだった。当時としては衝撃的な発想だったが、市場の反応は良好だった。 「私はプリンスの技術者出身。日産になってからもスカイラインの動向は常に気になっていました。ですから、時代の影響とはいえ、排ガス対策期に牙を抜かれた状態になったときは、気持ちが沈み、落ち着かなかったですね」 スカイラインシリーズの変遷は浮沈の繰り返しになる。販売台数では、4代目のC110(ケンとメリー)をピークに減少傾向に転じていく。理由は簡単で、70年代以降、各社の車種数が増え、1車種が占める市場占有率が下がったためだ。これはスカイラインだけに限った話ではなく、この傾向はバブル期に向かってより顕著になっていく。 「排ガス対策を済ませ、それまでやれなかったことがまた出来るようになった。高性能指向の車両開発は、その最たる例でしょう。R30はそんな時代背景で送り出されたモデルでした」 最終的には、DOHC4バルブターボにまで発展した史上最強のスカイラインは、まさに技術の日産、性能のスカイラインを象徴するモデルだった。 この狙いは見事に当たったが、この頃から強力なライバルが立ちはだかることになる。新エンジン1G‐G型を搭載するトヨタのマークⅡ/チェイサー/クレスタの連合軍だった。 「ハイオーナーカークラスのモデルを3車種揃え、異なる車両性格とすることで、幅広いユーザー層に対応したあたりは、いかにも販売戦略に長けたトヨタらしい商品企画でした。そして、これがヒットするわけです」 「私が思い描き、抱き続けてきたスカイライン像ではなかった」 この時点で、スカイラインは独自のポジションにあり、長い歴史に支えられた強いブランド力を持っていた。このスカイラインとローレルで共闘を組めば、マークⅡ連合軍と十分以上に戦えたはずである。 「ところが、日産はスカイラインにラグジュアリー性、コンフォート性を求めてしまった。スカイラインに居住性能やユーティリティー性を与えることで、マークⅡ連合軍の市場を切り崩せるだろうと読んだのですね。これが7thスカイライン(R31)でした」 伊藤さんがスカイラインの主査として着任したのは、R31が発表される半年前のタイミングだった。この時期は最終仕上げの段階で、基本領域に関して手を付けられる余地は皆無。 「これは違う、違うなと。私が思い描き、抱き続けてきたスカイライン像ではなかった。むしろ、その逆でした」 現在でこそ、ヒストリックカーとして独自の価値を持つ7thスカイラインだが、新車登場時には首をかしげるファンもいた。とくにスカイラインファンからは「裏切り」として背を向けられることも少なくなかった。 「快適で居住性に優れたモデルは、市販車として見れば間違いではない。しかし、これはローレルにとっての正答で、スカイラインにとっての解答ではない。スカイラインを支持し、長らく愛し続けて下さったファンの方々は、スカイラインに後席居住性は求めていない。むしろ、ぎゅっと押し固められた性能の凝縮感、これを喜んで下さる方々ばかりでした」 「早く元の姿に戻して……」スカイラインの悲痛な叫びが、私には確かに聞こえた ある意味、伊藤さんにはツキがあった、と見ることもできた。車両単体としての出来の良しあしではなく、スカイラインのイメージ像から離れてしまった7thの次期モデルを任されたからだ。市場では、お世辞にも好評だったとは言い難い7thだけに、思い切った手を打てる環境、条件が整っていた。開き直って言えば、失うものはない状態だった。 「7thを見ていますでしょ。そうすると、『ボクはこんなんじゃない』、『早く元の姿に戻してほしい』、そう訴えかける声が聞こえてくるんですよ。それこそ悲痛な叫びですよ」 富士精密入社時から、友人のようにスカイラインを見守り続けてきた伊藤さんにとって、本質を見失ったスカイラインの姿は、とても見るに堪えない状態だっただろう。「オレが元に戻してやる、もう少し待ってろ」、そんな会話があったのかもしれない。 「スカイラインを成立させる要素はいろいろあると思いますが、突き詰めれば、その本質は走りでしょう。そして、その本質に見合ったスタイル。直6だ、DOHCだと細かなメカニズムを挙げれば、それこそ数限りなくありますが、やはりスカイラインの基本は走りの性能。1800㏄の標準モデルから、グループAレースを勝ちに行くGT‐Rまで、ドライバーの思いどおりに気持ち良く走るクルマでなければダメだと。とにかく、全体論から各論まで、この点にだけ留意しました」 R30、R31を経てついに登場した、R32スカイラインGT-R。 グループAを制覇するためのGT-Rの復活 長い時間、スカイラインを見続けてきた人間でなければ、この発想原点には立てなかっただろう。逆に、細かな技術論にとらわれず、スカイラインの本質だけを見続けたことが、R32成功の要因になった。 「走りの性能を証明する最も手っ取り早い方法はレースで勝つこと。スカイラインGTのブランドは、こうして作られ市場で認められてきました。そして、改造制限がありベース車両の基本性能が問われるグループA規定のツーリングカーレースが、世界規模で行われていて、まさにスカイラインにとってふさわしい舞台。となれば、レース用のモデルは当然GT‐R。グループAを制覇する目的でGT‐Rの復活を計画しました」 これほど思い切った手を打ってきただけに、開発途上で社内的な問題や障壁にも行き当たったはずだが「それをなんとかするのが主管の仕事ですから」と伊藤さんは笑って多くを語らない。 「もう27年もたちましたか……」と時の流れに目を細める伊藤さん。その姿から、R32スカイラインがいまだに色あせない理由が分かった、それはスカイラインの本質をついているからだ。 伊藤修令(いとう ながのり) 1959年にプリンス自動車工業の前身、富士精密工業に入社。以後、スカイラインの生みの親、櫻井眞一郎さんのもとでシャシー設計を中心に手腕を奮う。日産との合併後はマーチやローレル、レパードなども手がける。R32開発後はオーテックジャパン常務理事やニッサンモータースポーツインターナショナルのテクニカルアドバイザーなどを歴任。 初出:ハチマルヒーロー2017年1月号 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部