「90歳を過ぎて経営の最前線にいても“老害”と言われなかった」 スズキを第一線で主導してきた「鈴木修さん」が“稀有なカリスマ経営者”と言われる理由
売上高は3000億円から3兆円に
小さな車を作ることなら誰にも負けない――。 鈴木修さんは1978年、48歳で社長に就き、2021年に会長を退任するまで40年以上にわたりスズキの経営を第一線で主導してきた。社長就任時、3000億円ほどだった売上高は、この期間に3兆円を超えた。 【写真をみる】「鈴木さんの経営姿勢が詰まっていた」軽自動車のアルト 初代の姿は?
長年取材してきた「財界」主幹の村田博文さんは言う。 「90歳を過ぎて経営の最前線にいても老害と言われず、言動が注目された。ワンマンだと本人も認めていましたが、指示が良かったのか現場に行き、誤っていれば改める。問題を誰かのせいにせず逃げない人でした」 自身を“中小企業のおやじ”と呼んでいた。 「コスト削減のため下請けに部品の値下げを求めては信頼を失うと、自社で無駄を無くした。工場は太陽光を多用、浜松の本社も質素で受付嬢もいなかった。“商品が全て”で一貫。使う側や販売店の声をくみ取り実用性に徹して支持された。こうしてスズキは成長、独自性を保った」(村田さん)
良い意味でのケチ
30年、岐阜県の下呂生まれ。中央大学法学部を卒業、銀行勤務を経て、58年、鈴木自動車工業(現・スズキ)に入社。2代目社長の鈴木俊三さんの娘婿となる。 78年、社長に。メーカーとして最後発で軽自動車の人気も凋落していた。 翌79年、社運をかけて世に出したのが、軽自動車のアルトだ。簡素だが荷物を積む余裕もあって47万円と破格。大反響を呼ぶ。 ジャーナリストの小宮和行さんは思い返す。 「良い意味でのケチでした。安全性と性能は保ちながらラジオなどは付けない。軽量化すれば燃費も良くなる。アルトには鈴木さんの経営姿勢が詰まっていた」 アメリカのGM(ゼネラル・モーターズ)が81年にスズキと提携したのは、小型車を分析しアルトの設計に驚いたためだという。
インドで成功できた理由
さらに82年、インド進出を決定。自動車産業を誘致しようと来日していたインド政府の使節の宿泊先を鈴木さんが訪ね、じっくり親身に話したことがきっかけだった。インドの一行は他社とも会ったが、形ばかりの応対であしらわれていた。 83年からインドで生産を開始、現地部品メーカーも育て自動車産業を根付かせた。現在でもスズキはインドで販売台数の約4割を占め、シェアは1位。インドでの事業は重要な柱である。 「鈴木さんは偶然の産物と話していましたが、最大の功績でしょう。インドそのものが進出先として未知数の時代に、人間同士、心は通い合えると、日本式の工場運営や経営を定着させた。我慢強かった」(村田さん) インドへは300回以上訪れ、現場主義を実践した。 「インドでトップに立ったことを誇りにしても、大企業になったと勘違いしたら転落だと戒め、大手と競わず軽に集中した」(村田さん)