没後4年「渡哲也」が受け継いだ「石原裕次郎」の“人生流儀” 「石原良純」「みのもんた」が証言する
「もう頃合いでしょう」
裕次郎の未亡人であるまき子夫人(87=当時)は、関係者宛ての2020年7月17日必着の手紙で、翌年1月16日に事務所を解散することを正式に発表している。石原家をよく知る芸能関係者が言う。 「まき子夫人が明かしたように、“俺が死んだら即会社をたたみなさい”というのが裕次郎さんの遺言でした。ただ、石原プロの幹部たちは、“会社を存続させれば、金が入り続け、まき子夫人は食うに困らない”、“裕次郎さん亡き後も彼女を支えていこう”と考えた。そこにぶら下がろうとするスタッフの思いに後押しされて未亡人も会社を続けることを選んだのです」 だが、2代目社長に就いた渡の近年の思いは違った。 「裕次郎さんの遺言を重く受け止めた渡さんはここ数年、常に“自分の目の黒いうちに石原プロをきれいに終わらせ、石原家にお返ししたい”と考えていた。そもそも舘ひろし以外に大きな稼ぎ頭がおらず、彼に負担をかけたくないという思いや、若手などの将来に責任が持てないとの自責の念に苦しみ続けてきた。その解散の悲願が叶ったばかりだというのに……」(同) スポーツニッポンOBで、渡と50年以上にわたって交友のある脇田巧彦氏は、 「石原プロの解散情報を耳にした7月15日に、渡さんにショートメールを送ったら電話を折り返してくれたんです。彼は淡々とした口調で“主がいなくなってから33年間もよく続いたと思います。石原裕次郎の名前を汚さないように頑張ってきましたが、もう頃合いでしょう。跡継ぎもいませんから”と話していました。彼は裕次郎さんの死後、本当に頑張って頑張って、ついに責任を果たしたわけです。凄い男だと思いますよ。ただ、それからすぐに彼自身の人生が幕引きを迎えるとは思いもしなかった」 精根尽き果てたのだろう。
「良純は明るくていい」
1941年に島根県で生まれた渡は、青山学院大学に進学し、在学中に訪れた日活撮影所でスカウトされる。 その後の人生を決定づける裕次郎との出会いは、日活の食堂でのことだった。渡が憧れの銀幕スターに挨拶すると、裕次郎は食事中だったにもかかわらず、席を立ちあがり、「君が新人の渡君ですか。石原裕次郎です。頑張ってくださいね」と激励した。これに感激した渡は、それから裕次郎の“流儀”を受け継いでいく。 渡と親交の深いキャスターのみのもんたによれば、 「初対面は銀座のクラブで、僕がまだ40歳前後の頃でした。こっちはペーペーだったけど、あちらは大スター。恐るおそる挨拶に伺うと、それに気づいた渡さんはさっと席から立って深々とお辞儀するんです。いや、驚きましたよ。この業界には咥えタバコや、ポケットに手を突っ込んだまま挨拶をする連中も多いのでよけいに際立っていた。渡さんの振る舞いを見ているから、石原プロの俳優は誰もが礼儀正しい。僕にとっても常に模範を示してくれる“兄貴”のような存在でした」 渡とほぼ同時期にデビューした俳優の黒沢年雄はこう振り返る。 「当時、雑誌の企画で将来の映画界を担う新人俳優が特集されてね。東宝から僕が、日活からは彼が選ばれて対談したことを覚えています。彼は稀に見るスターでしたよ。演技を磨いて名優になる人はいるけれど、スターというのは別格の存在。演技力など超越して、本人の存在感が観客を惹きつけるんです。裕次郎さんはもちろん、渡さんもそういったタイプの俳優でした」 裕次郎の甥で、「西部警察」では渡を“団長”と仰いだ石原良純は、本誌に以下のコメントを寄せた。 〈“良純は明るくて良い”と渡さんにいつも褒められた。でも、学生から撮影現場にいきなり飛び込んだ僕に笑顔の余裕などあったはずもない。渡さんは厳しい。でも、己に厳しい渡さんの周りの人間には、厳しさが当然と思えた。時を経て、その厳しさの何十倍もの優しさに気がついた。現場では、いつも明るく振る舞えという教えも理解できるようになった。ありがとう、ございました〉