荀彧・郭嘉・司馬懿・周瑜・魯粛・諸葛亮、6人の天才の戦い方の違い(前編)
■ ライバルである司馬懿からは、諸葛亮はどう見えていたのか? 宿命のライバル諸葛亮と司馬懿。第4回の北伐では、蜀軍の進出に司馬懿の率いる魏軍は昼夜兼行で駆け付け、魏軍の到着が予想より早かったため、諸葛亮と蜀軍は撤退を決定しています。 司馬懿はこの戦いで次のような言葉を残しました。 『諸葛亮は考えすぎて決断のつかぬ男、かならず防備を固めてから麦を刈りはじめるにちがいない。昼夜兼行なら二日もあれば十分だ』 『こちらは昼夜兼行で疲労の極にある。軍略に明るい者なら飛びついて攻めかかるところなのに、やつは渭水で防ごうともしなかった。これでは怖れるに足らぬ』(共に『正史三国志英傑伝2』より) 臨機応変を極める司馬懿のような軍事指揮官からすると、諸葛亮のやっている軍事判断は、考えすぎて戦機を何度も逃すじれったいものに見えたのです。その意味で、両者の強みはまったく異なり、諸葛亮の側には右腕となる軍事指揮官がおらず、一方の司馬懿は政治的にも安定した統治がされている魏による派遣という有利さが垣間見えます。
■ 曹操のまさに右腕軍師だった「郭嘉」の戦い方 軍師の郭嘉は、28歳のとき荀彧に紹介されて曹操に仕えた人物です。その戦略眼は鋭く、40歳になる前に病没したとき、曹操は郭嘉の死を大変に惜しみました。郭嘉は袁紹との大戦争である官渡の戦いでも従軍しており、軍事における曹操の右腕でした。 後年、赤壁の戦い(208年)で大敗をしたとき、郭嘉が生きていれば自分はこんな目に合わずに済んだだろうと嘆いたほど、郭嘉は曹操の信頼を得ていました。 劉備が曹操配下から離れて、小沛で自立を宣言した時、郭嘉は曹操に以下のように進言します。 『袁紹は愚図でためらってばかりいるので、すぐには攻撃して来ないでしょう。劉備は兵を起こしたばかりで、人心はまだ彼に服しておりません。急いで彼を撃てば必ず勝てます。これは存亡の好機、逃してはいけません』(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より) 郭嘉はリスクの大小を正確に測り、発生確率の大小も考慮に入れて「ベストの効果を期待できる攻撃先」を迷わず進言しています。通常であれば、背後を襲われる可能性に縛られて動けなくなるところを、郭嘉の洞察の正確さが、実行への道筋を与えてくれているのです。 背後の憂いがないと断言することで、曹操軍は劉備打倒に兵力を最大限集中できます。郭嘉の洞察の重要なところは、打撃力を最大限集中できることです。優先順位、重要度を極限まで洗練させることで、最大の打撃力を、最良の場所に集中できるのです。 このような戦い方、勝ち方は自軍の勢力を最大限有効活用することが可能です。集中と同時に、無駄な分散が生まれない状態なら、自軍の力を何倍にも高めることができるでしょう。