福岡県みやま市の「五百羅漢」 山中に並ぶ石仏が教えてくれるもの
隆啓さんの父にあたる先代の住職は、相談なく「誰人の行為」によって突然、同じような顔が付けられたことに、ショックを受け、立腹したそうだ。しかし、もはや受け入れるほかなく、石仏はそのままの状態で、緑深い森の中で静かに鎮座している。
石仏は本堂に続く旧道にある。副住職が参拝者に五百羅漢の歩みを解説すると、廃仏毀釈の歴史を知らずに、興味深そうに耳を傾ける人もいるそうだ。
鳥居に「清水寺」の文字
こうして、似たような顔の石仏が並ぶようになった五百羅漢だが、中には大きさや表情が異なるもの、不安定な場所に座しているものなど、それぞれに個性がある。
歴史の証人として今に残る石仏。数々の苦難を乗り越えてきたからだろうか、顔をはうカタツムリさえも穏やかな表情で受け入れ、訪れた人たちを温かく迎えているようだった。
五百羅漢の先へ進んでいくと、神社にあるはずの鳥居があり、そこに「清水寺」の文字が読めた。住職によると、この鳥居は昭和の時代に造られたものだという。
「宗教の本質はエゴをなくし、心安らかにあること。キリスト教も仏教も本質は同じです」。住職の言葉を思い出す。
「神仏習合」――。寺と神社が同じ敷地に共存した時代が確かにあった。神も仏も大切に敬う、おおらかな宗教風土。長い時間をかけ、この国で培われた信仰の形を、コケに覆われた鳥居が教えてくれているような気がした。
読売新聞