「あなたをおじいちゃんと呼んでみたいんです」 歌人・木下龍也が亡くなった祖父にもう一度会いたいと強く願う理由
祖父についての唯一の記憶
『あなたのための短歌集』『オールアラウンドユー』などの著書を持つ、歌人の木下龍也さん。鈴木晴香さんとの共著『荻窪メリーゴーランド』も話題の彼が、もう一度会いたいと強く願うのは母方の祖父だという。どうして祖父は祖母と離れて暮らしていたのか、その理由は今も分からないままで……。 ***
目の前に立つ祖父が、折り畳まれた紙幣を僕に差し出している。たった3秒くらいの短い映像が、母方の祖父についての唯一の記憶だ。場所は、おばあちゃんが一人で住んでいたマンションの一室で、その映像には音も色もない。差し出された紙幣を僕が受け取ったのかどうかも覚えていないし、左手の向こうにあるはずの表情も逆光で見えない。けれど、見上げた視界の中心にいるその人物が祖父であると、幼い頃の僕は記憶している。
友人たちの家庭とは異なる祖父母の関係
祖父は遠方に住んでいて、ときおりおばあちゃんの家に帰ってきていた、というのをかつて親戚が僕に教えてくれた。単身赴任で、という平穏な理由ではなかったようだ。ふたりの関係性について、当時の僕も友人たちの家庭とは少し違うなと思っていたかもしれないが、どうしてそうなのかを聞けるほど無邪気な子どもではなかったし、たとえ聞いても理解はできなかったはずだ。僕がおばあちゃんの立場だったら耐えられそうにない話もいくつか耳にしたけれど、二人にどんな事情があって離れて暮らしていたのか、本当のところは今も知らない。そのような状況で、たまたま帰って来ていた祖父と僕が遭遇し、冒頭の記憶が残された、ということだろう。 あなたが生きていた頃の記憶はそれだけしかなくて、他に覚えていることといえば、あなたの葬儀で、あなたの死に顔も見ずに、境内に敷かれた砂利を飽きるまで踏み鳴らしていた昼下がりの自分の足元の映像くらいだ。
もし願いがかなうのであれば…
だからもし願いがかなうのであれば、もう一度あなたに会ってみたい。どうしておばあちゃんと一緒に暮らしていなかったのかを問い詰めたいわけではないんです。当事者同士にしか分からない事情があり、家族にもさまざまな形があることを今は理解していますし、後悔していても、していなくても、亡くなったあなたには変えようのないことですから。そうじゃなくて、居酒屋のメニューで何が好きかとか、どんな映画を観て、どんな本を読んできたかとか、あなたの両親はどんな人だったかとか、どんな子どもだったかとか、仕事や趣味とか、誰とでもするような普通の話を、誰かの声ではなく、あなたの声で聞いてみたい。普通の話をして、距離を縮めて、あなたでも祖父でもなく、おじいちゃんと呼んでみたいんです。 僕が生まれる前に亡くなった父方の祖父のように、一度も会ったことがなければこんなふうには思わなかったでしょう。断片的で余白の多い記憶に、前後や奥行きを求めてしまうのは短歌を仕事にしている僕の癖です。おばあちゃん子だった僕はきっと、おじいちゃん子にもなれると思います。そして、おばあちゃん子だった僕は、別れ際に我慢できず、おばあちゃんについてどう思っていたかを聞いてしまうかもしれません。そのとき、どんな答えが返ってきても僕は笑って手を振るでしょう。それくらい僕はもう大人になってしまいました。 木下龍也(きのした・たつや) 1988年山口県生まれ。歌人。著書に『あなたのための短歌集』『オールアラウンドユー』(どちらもナナロク社)、共著に『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)など。 デイリー新潮編集部
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