『化け猫あんずちゃん』は驚くほどに山下敦弘映画だった 実写×アニメの良さが活きた快作
アニメでも活きる山下敦弘のセンス
本作の実写映像を監督したのは、独特のオフビートセンスで支持される山下敦弘だ。普段、奇妙に気の抜けた、魅力的な空間と人間模様を映し出すが、アニメーションでその感覚がどこまで活かされるのかと疑問だった。だが、本作は驚くほどに「山下映画」だった。 引きのショットでカメラを固定して大きく動かさず、独特のテンポでセリフを喋らせる山下演出は健在だし、独特の緩い空気感はいつもの山下節である。いましろたかしの原作は山下監督と相性がいいのだろうし(山下監督はいましろ原作の映画化はこれで二度目)、なによりダメな大人と妙に達観した子どもの組み合わせは彼の得意とするところだ。 むしろ、アニメのキャラクターに置き換えてデフォルメすることで、山下監督の長所が強調される結果になっている。例えば、かりんの父親・哲也のいい加減さなどは実写映像で観たらイラつくかもしれない。駄目な大人と悪いことする子どものあり方が、アニメーションのゆるい雰囲気で包摂される感覚が強まっている(駄目な大人を許すべきかという倫理感の問題ではなく、これは映像のテイストの話だ)。あるいは、ロケット花火で鳥を追い払うシーンの間の抜けた感じは、アニメーションでこそハマるシーンだろう。 役者同士の芝居の間合いも同時録音の声を活かしたことで、現場の雰囲気を引き継げている。この感覚は、きちんと実写の撮影現場で演出されていないと出せない。実写演出の絶妙な塩梅が通常のアニメにはない雰囲気を生んでいるのだ。
実写とアニメの良さが打ち消し合わずに共存
久野監督は、ロトスコープの有用性について「アニメーションに偶然を取り込める」点を挙げている。前述した『Spread』で対象に赤ん坊を選んだ理由をこう語る。 「映画には偶然による奇跡ってあると思うんです。商業アニメの作り方だとそれが起きにくいとは思いますね。でも、ロトスコープはアニメーションでアクシデントを起こすために有効だと思います。『Spread』で赤ちゃんを撮ったのはそのためです。赤ちゃんは段取り通りに動きませんから」(※2) 通常のアニメーションでは全ての動きをアニメーターが作るので、そこに描かれる動きには必然があり、意図がある。だが、生身の身体は意図しない微細な動きも存在する。長回しで撮影すればするほど、そういう動きがカメラに収められる。 演者は無意識でも、改めてアニメーターが解釈してその動きを拾って意図ある表現にできることが、本作を観るとよくわかる。たとえば、かりんはアニメのキャラクターのようにまっすぐ歩かない。東京の母の墓に行けなかった後の橋上のシーンなどは、かなり左右にフラフラしながら歩いている。このフラフラ感をアニメーターが改めて作画すると、不安定なかりんの気持ちが代弁されているように見えてくる。アニメーターが実写の動きをどう再解釈して提示しているか、本作にはその醍醐味が全編に渡ってある。 また、フランスのMIYUプロダクションによる背景もアニメーションの醍醐味を伝えている。まったりとした空気感の作品で、日本の地方の町を捉えた本作だが、同時にひと夏のきらびやかな体験として感じられるのは、美術の力が大きい。美術監督のジュリアン・ドゥ=マンはボナールの絵画を参考にしたと語る。緑に黄色を混ぜて光があたって輝いているような印象を与え、べとついた日本の夏の風景をさわやかに描いている。 また、実写で撮影が困難な終盤のカーチェイスは、『クレヨンしんちゃん』を彷彿とさせてシンエイ動画のらしさが発揮されている。このシーンはアニメらしい飛躍を活かした見せ場だ。 総じて、実写とアニメーション双方の良さを打ち消すことなく絶妙にブレンドされており、監督二人の相性もよかったのだろう。こうした化学反応をもっと見てみたい、様々な実写監督とアニメーション監督のコラボレーションが実現してほしいと思わせる快作だった。 ■参考 ※1 https://mediag.bunka.go.jp/article/article-18108/ ※2 https://realsound.jp/movie/2020/12/post-673439.html
杉本穂高