長崎原爆投下、焦土からの復興のシンボル「長崎市公会堂」が解体の危機に
長崎原爆の投下から70年。焦土からの復興のシンボルとして建設された「長崎市公会堂」が解体の危機にさらされている。市は老朽化を理由に解体する方針だが、建築家や被爆者団体、文化団体は「復興の歴史を語り、戦後の長崎の文化を支えた建築物」として存続を求めている。
「これほどの思いがこもった建築物なんです」。存続運動を引っ張る「長崎都市遺産研究会」副代表で建築家の中村享一さんは、冊子を差し出した。初版が発行されたのは、1966年。国、そして国内外の人々の熱意が長崎の街を復活させた10数年間の歩みをまとめたものだ。 中村さんや冊子の復刻版によると、1949年、国は長崎市の復興計画の基となる特別立法を制定。未曾有の壊滅から4年を経て、長崎で復興に向けた歯車がようやく動き始めた。 事業の建設委員会には、名誉総裁に秩父宮勢津子妃殿下、総裁には鳩山一郎首相など要人の名前が並んだ。公会堂は、美術博物館、図書館、水族館などとともに建設されることが決まった。
建設資金には、長崎県民のみならず、国内外から多くの浄財が寄せられた。 県内では、1955年から10年間、役所や農協、銀行、造船所などの約1250団体、8万人(1957年時点)が毎月、もしくは月に数度、寄付をした。給料から天引きされる職場もあったという。一時的に寄付をした企業は国内で300以上に上った。 世界各国のメディアがこの取り組みを大きく報道したこともあり、様々な国の財団や企業、長崎と同じ港湾都市も続々と協力。ニュースで知ったアメリカの15歳の少女は「(計画が)世界各国に平和をもたらすものであることを希望し、建設基金として私のお小遣いを送ります」という手紙を添え、1ドルを送ってきた。 結果、総事業費約9億円のうち、3割を超える約3億3000万円が寄付金でまかなわれた。公会堂は建設費2億5000万円が投じられ、その1割は寄付金だった。1961年に着工、翌年6月に完成した。 「長崎国際文化センター」と名付けられた、公会堂などの整備計画が成就してから今年でちょうど半世紀。計画で建てられた6施設のうち、今、残っているのは公会堂と県立図書館のみだ。中村さんは「平和文化都市に育つようにとの願いが込められ、公会堂は建設された。人々の善意が集まって、平和は形作られていくことを体現している」と訴える。