市川染五郎の恋人役・尾上左近に 玉三郎が“女方のいろは”を伝授! 「私の娘になってね」という一言で…
感動の先に広がる、観客としての未来の自分
上演中の舞台で描かれている物語の真の主役は、蘇我入鹿という邪悪な為政者に翻弄される親たち。玉三郎さん演じる定高と松緑さん演じる大判事清澄です。国家を揺るがすスケールの大きな展開の中で苦悩する親、その親を思い愛する人の行く末を最優先事項として命を投げ出す若者たちが織りなす物語ですが、その詳細には敢えて触れないことにします。 ネット上には情報が溢れていますし、今月は『吉野川』に至る前の物語である『太宰館花渡し』の場の台本を見直し、この作品に初めて触れる人でも状況がわかるような構成になっていまので予備知識なしでも心配はいりません。 玉三郎さんという偉大な存在を相手に敵対する人物を演じている松緑さんは、「定高に対抗する心意気がなければこの役は勤まりません。大判事として松緑として、定高に玉三郎の兄さんに向かっていきたい」と語っています。それを凛とした風情で真っ向から受け止める玉三郎さんとの間に漂う緊張関係が、ドラマの結末をより一層味わい深いものにしています。 上演の機会が少ない作品にあって久我之助を二度演じているという父・松本幸四郎さんからこの役を習ったという染五郎さん。染五郎さんと松緑さんの間には、共に政治の中枢部に関わる男性同士である父と子の苦悩が憂いを伴って舞台に立ち現れます。 娘の一途な恋心を慈しむ定高と純愛を貫きたいと願う雛鳥、母と子の間に漂う濃密な時間と、両家のドラマが舞台中央を流れる大河を挟んで交互に展開してく構成はいつもながらみごとです。 その見慣れた景色を、切なくも愛おしいドキドキするような臨場感でより新鮮なものにしているのが、純粋で無垢な魂を持った登場人物ながらに目の前の事態に真摯に向き合い懸命に取り組んでいる若き歌舞伎俳優、そして彼らを導く先達の姿です。舞台で展開されるフィクションとしての物語と演じ手から滲み出る人としての魅力が相まって、まさに千載一遇の『妹背山婦女庭訓』となっているのです。 自然災害や不慮の出来事など何が起こるか予想のつかない世の中ではありますが、いつかきっと染五郎さんの大判事、左近さんの定高でこの作品が上演される日がやって来るであろうことは想像に難くありません。 今、ふたりが久我之助、雛鳥を演じる舞台に触れるということは、2024年9月の歌舞伎座でのこの時にしか味わえない感動に出会えるだけでなく、未来の自分にも影響を及ぼし得る体験なのです。影響の有り様は人それぞれ、この先の過ごし方次第でもいかようにも異なることでしょうけれども。 何はともあれ、この貴重な機会にぜひ劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか。そして大道具の素晴らしい美術や、左右両サイドからの特別ステレオバージョンによる義太夫の語りと演奏などの音楽性を体感しながら、登場人物の一挙手一投足をしっかりと受け止めていただきたいと思います。
清水まり