Netflix『ボーイフレンド』が“純愛リアリティショー”に昇華された理由 「攻撃的な意見」が出にくい企画構成が鍵に
Netflixで配信中の恋愛リアリティショー『ボーイフレンド』は、日本だけでなく香港、シンガポール、ブラジル、フィンランドなど、10カ国で「今日のTV番組TOP10」入りし、異例の大ヒット作品となった。 【写真】「ピュアすぎる」“男性同士の恋愛リアリティショー”として話題に Netflix『ボーイフレンド』に参加したメンバーたち 日本初“男性同士の恋愛リアリティショー”はなぜ、ここまで大きく評価をされたのか。その理由、企画構造などを考察していく。 ・肯定的な意見が多く集まった『ボーイフレンド』 まず日本における恋愛リアリティショーのメイン視聴者層は、ミレニアム世代までの女性だ。そして日本で展開されてきた恋愛リアリティショーにおける見どころは、一般人同士の恋愛の覗き見感だった。芸能人ではない身近な一般参加者たちが、恋愛や他の参加者との群像劇のなかで見せる弱さ、成長、人らしさ。それこそが恋愛リアリティショーならではの魅力だ。 そしてここ数年の恋愛リアリティショーに関しては、上記に加え「考察性」が求められるようになってきた。SNSの台頭とともに、恋愛リアリティショーは誰かとシェアするもの、意見交換しながら楽しむコンテンツとなり、参加者の行動や恋愛観への自分の意見をSNSで発信する人も増えた。しかしその結果、令和の恋愛リアリティショーは平成以上にセンシティブなコンテンツとなっていったのだ。 コンテンツを友人やパートナーとシェアして、意見交換をし合おうという流れは、作品や配信側も意図して作り上げていったものではあったが、出演者は作品の中で役を演じているわけではないため、作品に対する「意見」が、ときに出演者自身の心を傷つけた。 そもそも恋愛はどうしても主観的な意見が出やすいものであるし、多様な意見があって然るべきなのだが、ともすればその意見は出演者、そして違う意見を持つ人にとっては刃となり、作品ごと炎上することもある。 しかし不思議なことに『ボーイフレンド』には、出演者の行動を叱咤するような意見があまり見られなかった。日本のSNS上で目立っていたのは「泣いた」「尊い」「ピュアすぎる」といった、シンプルに感動を伝えるような感想だ。リアリティショーでありながら、作品そのもののクオリティや構成に対する感想も多く、その多くが作品を肯定するもので、参加メンバーにも称賛が集まった。 ・本当に求められているのは“リアルすぎない”恋愛リアリティ? ここからは、なぜ『ボーイフレンド』の感想が愛のあふれるコメントで溢れ、LGBTQ+の当事者、そうではない視聴者からも支持されたのかを考察していく。 まず、日本では未だ数が多くないセクシャルマイノリティを題材に扱い、またそこに台本というレールを敷かず、リアルな生活にフォーカスした作品は他にないため、制作自体かなり斬新な挑戦だっただろう。しかし、視聴者層としては「ストレート女性」が多い恋愛リアリティショーというステージには、この設定がかなりマッチしていたとも言える。 前述したように、昨今の恋愛リアリティショーは常に炎上の危険性をはらんでいる。その火種となる「攻撃的な意見」が目立たなかったのは、集めた出演者たちの性質と企画構成が関係していると思われる。 インターネットの海ではいま、恋愛そのものがコンテンツ化しやすくなっており、またライフハック化されていたりする。そもそも多様なものであるのに、共感を集めやすいが故に主語が大きくなった発言は、ネット上で燃えやすい。 しかしある意味で『ボーイフレンド』は、視聴者の強すぎる共感を拾っていないのだ。視聴者のほとんどは、同性愛者である彼らの恋愛に自身を重ね合わせない。ストレートの恋愛とは異なる手順、アプローチ。これらは一般論として大きな主語で語られることもなく、当事者を知らない多くの人々にとって、ただただ新鮮だ。 そういう意味では、ある意味私たちはすでに恋愛リアリティショーの形骸化した構図に飽き飽きしているのかもしれない。かつては新鮮なリアルさとして映った嫉妬、売名、キャットファイト、ハニートラップは、もはや恋愛リアリティショーにおいては定番となってしまった。 しかし同性愛者たちの感情や行動の意図が真にリアルに映るのは、きっと当事者だけだ。多くの視聴者にとっては彼らの恋愛は知らない世界で、定石も正解の行動も分からないから、ある意味意見の持ちようがない。作品のなかではしっかりと、カミングアウトを含めた彼らの人生観、大変だった経験も語られる。そういう意味で視聴者は「参加者は私とは違う人間である」と、しっかりと線を引いたのだ。 「私ならこうするかな」というアドバイスは、ときに狂気を帯びる。言葉を選ばずに言うが、本作においてはそういった上から目線な意見は全く見当たらなかった。メンバーたちの切実すぎる恋する気持ちだけがフォーカスされ、作品はいままでにない純愛リアリティショーとして昇華された。 Netflixから配信される恋愛リアリティショーはこのところ、企画力によって視聴者の考察性を排除した作品が多い。メイン視聴者層よりも高い年齢層を扱った『あいの里』、特殊な設定で恋愛映画のようなフィクション性を持たせることに成功した『オオカミちゃんには騙されない』に続いてまた一つ、炎上しない恋愛リアリティショーの成功例が生まれた。 ・リアリティを求めつつも「意地汚い人間らしさ」を排除したくなる、令和的な感情 そして本作きっての魅力とも言えるのが、参加者となった男性たちのキャスティング力だ。もちろん外見も光るものがあったが、人間力の高い参加者が集まった。どうやら一般的なオーディションで選ばれたのではなく、自身も当事者であるというプロデューサーが個別でも声をかけながら、時間をかけてキャスティングしたという。 セクシャルマイノリティたちの特徴は一言で語れるものではないが、今回の参加者に関しては思慮深く、若くして人間が出来上がっている男性たちが集まった。好きな人に対しても決して踏み込みすぎない、作品内で交わされる会話も「深イイ」。 ストレートの恋愛と比べると、気を遣い合わねば立ち行かない場合も多いからこそ、人との距離感が絶妙だったり、他メンバーへの声掛けも適切だ。通常の恋愛リアリティで見どころとされるような「勘違い行動」が取り沙汰されることもなく、メンバーへの好感が集まった。 作品の配信中だけでなく、配信から時間が経ったあとに元参加者の言動が問題視されることもあるが、それもたいていは制作側から手が離れたのちに、SNSを通じて事が大きくなることが多い。しかし常日頃から他者への配慮が行き届いているメンバーたちは、SNSの運用も適切だった。または、そのリテラシーがある人だからこそ、メンバーたり得たのかもしれない。本編外で過度に盛り上げすぎることもなく、作品内とのキャラクターのギャップも生まなかった。 いまのSNSは、インフルエンサーが自らを「さらけ出す」ことがよしとされやすい。あえてキラキラさせて見せる、偶像めいた投稿への拒否感がそういった風潮を生んでいる。しかし、本作の参加メンバーはいい意味で、SNS上でも自身のキャラクターを誇張しない。今や誰もが本質的に求めているネット上での自然なスタンスも、参加メンバーがいまも多くのフォロワーたちに愛されている所以だろう。 ・当事者にとっての意義、当事者でない人にとっての意義 もちろん本作品に対する同性愛当事者の声も上がっていた。匿名アカウントがほとんどだが、特に若い世代と見られる意見のなかに、多くの視聴者と同じく「励まされた」という意見を見つけた。 当事者のなかには、ストレートである筆者とは違った見方を持つ人もいたかもしれない。日本のフィクション作品でこのテーマが扱われる時、当事者からは否定的な意見も上がったりする。当事者の人生を過度に誇張して描いたり、間違ったイメージを持たれるきっかけになるからだという。 しかし『ボーイフレンド』に台本がないことは、紛れもない。ノンフィクションとして描かれた作品が見せた人との関わりの尊さが、当事者の心を浄化する働きがあったのであれば、それこそがいまの日本でこの番組が配信された大きな意義であったとも思う。 『ボーイフレンド』が見せた同性愛者たちの恋愛がリアルなのかどうか、ストレートである私には分からない。だけど、分からなくてもいい。分からないからこそもっと彼らを理解したくなるし、寄り添いたくなる。 当事者ではなくとも、参加者のSNSなどをフォローした人は多いだろう。彼らがこの先の活動でなにを発信していくのかは分からないが、彼らの恋愛を「純愛」として終わりにしてほしくはないなとも思う。どんな恋愛にも純情な側面と、つらくおどろおどろしい側面があるものだ。 リアルな意見を聞くきっかけは少ないかもしれないが、こうして世間に「カミングアウト」してくれた人々の生き様に、ぜひ注目し続けてほしい。そうして、彼らの考えを知ろうとしていくこと。そうすればきっと『ボーイフレンド』は、いまの時代の日本に生まれた意義を真に発揮していくことになるだろう。
ミクニシオリ