濱口竜介作品との共通点とは? 映画『憐れみの3章』評価&考察。『哀れなるものたち』の駄賃としての自己反復について
濱口竜介監督『偶然と想像』との親近性
『ロブスター』の収容者たちのように、人間はどうせ部屋番号に還元されるアバターでしかないという認識。であるならば、発狂しようと、惨殺されようとたいしたことではないという結論になってしまう。 このような映画世界はやっぱりバーチャルな収容所だという気がする。『ロブスター』の主人公コリン・ファレルは「わたしはロブスター(オマール海老)になりたい」という当初の表明どおりに、ラストでじっさいにオマール海老に生まれ変わってみせるべきだったし、「転生したらロブスターだった件」などとうそぶきながら甲殻類としての栄光を享受しつつ、人間社会の矮小さを逆照射的に撃つべきだった。『憐れみの3章』の遁走者たちもまた、誰ひとりとしてオマール海老に転生しようとしない。 単独監督による3話オムニバスという形式は、独特な世界観を重層的に提示しうる、じつに興味深い説話形式である。ただしこれはヨルゴス・ランティモスのオリジナルなスタイルというわけではない。 近年においてこの形式をあざやかに活用しえた例として、濱口竜介監督の『偶然と想像』(2021)が記憶に新しい。そういえば『憐れみの3章』はどことなく『偶然と想像』と似たような感触がある。人物類型に関する冷徹な観察という作家の姿勢ばかりが共通項ではなく、『ドライブ・マイ・カー』(2021)という自身の作家キャリアを決定づけるモニュメンタルな大作と同時並行で製作が進められた『偶然と想像』がかもす息抜きのようなゲーム感覚は、『哀れなるものたち』と『憐れみの3章』の2者の関係値に近いものがある。
『哀れなるものたち』の駄賃としての自己反復
単独監督による3話オムニバスというと、歴史的には名手による腕の見せどころとなる印象がある。ナポリ→ミラノ→ローマと3都市に舞台を移しながらソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニがいろいろと役替えしていく『昨日・今日・明日』(1963/ヴィットリオ・デ・シーカ監督)であるとか、船越英二がベストセラー小説家を3章通しで演じつつ、各章で山本富士子、叶順子、野添ひとみと順にからんでいく『女妖』(1960/三隅研次監督)など、思い出すだけでも手だれの映画ファンを納得させうるだけのあざやかな名手ぶりが発揮されている。 その伝でいけばランティモス、濱口の両監督は、かつてのデ・シーカ、三隅研次の域に達した名手としての自覚があるということにもなる。本当にそうなのかと問い直されたならば、そうだとも言えるし、そうでないとも言える、などとのらりくらりと答えるほかはないが、少なくとも今言えることは、濱口は『偶然と想像』を9話まで続けると予告しているから、その予告がただの冗談でなければ、さらにロメール的拡張を見せてくれることだろう。 ランティモスの場合はどうかといえば、『憐れみの3章』の存在意義は、苦労続きの大作『哀れなるものたち』の駄賃としての自己反復にあるのだと思う。いったん過熱した自身を取り巻く状況を冷却させるとともに、原点回帰という旗印によって旧来からのファンの心を慰撫することもできる。 筆者自身は不満が残ったし、アメリカ本国で興行面、批評面ともに振るわなかった『憐れみの3章』は、少なくとも上述のような役割はじゅうぶんに果たしえた作品なのだとは言えるだろう。さまざまに上げたり落としたりして評してきたが、『憐れみの3章』で起こる各事件は非常に楽しくてまがまがしい。大いに楽しんでいただいた上で、もしこの評に思考を戻してくださるなら、この上なき幸いである。 【著者プロフィール:荻野洋一】 映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」などの媒体で映画評を寄稿する。7月末に初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。この本はなんと600ページ超の大冊となった。
荻野洋一