両親が健在で経済的にも恵まれている家庭はほとんどない、書類が読めずセーフティーネットにも繋がれない...「刑務所のお医者さん」が見つめる受刑者たちの置かれた現実
酷暑・極寒の刑務所の暮らし
「法務省矯正局医師」という職業があります。診察するのは受刑者たち。つまり、「刑務所のお医者さん」です。法務省矯正局医師として受刑者たちの診察に奔走するおおたわ史絵さんがその日々の様子を綴った『プリズン・ドクター』(新潮社)という本があります。スマホやPCは持ち込み禁止。凶器になりかねない傘などあらゆる持ち物も禁止。入れ墨、指詰め、注射痕のある人がゴロゴロいる。外の世界とはあらゆる常識が異なる塀の中の世界での風景や出来事が綴られています。 まず、この本で描かれるのは、あらゆる設備が古く、脆弱な刑務所の現実。エアコンがないところも多く、夏は蒸し暑く、冬は極寒。夏は水虫、冬はしもやけになる受刑者が続出するのが風物詩だといいます。設備が不十分なのは医療においても同じ。薬価基準に収載されている薬剤が1万3千種類という中で、刑務所の中にはたった数百種類の薬しかないそう。その中で知恵を働かせ、なんとか治療を行うのだと言います。 刑務所の環境がよくなってしまったら罰の意味がなくなる、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、おおたわさん曰く、「刑務所は罪人を懲らしめる場所ではない。懲役を勤めあげさせるとともに、心身の健康を教育して更生への道を示すところ」。そのためには環境の改善も必要です。しかし、刑務所内でのトラブルを未然に防ぐため、あらゆることが厳格に決められている刑務所では、ひとつのことを変えるのにも、信じられないほどの労力と時間がかかるそう。 「手袋の中に何かを隠し持つ可能性がある」という理由で、極寒の作業中でも手袋をせずに作業するので、しもやけになる受刑者が続出。薬を処方すれば結局費用がかかるのだから、予防するほうがいい。しかし、新しい試みは危険を伴なう、と許可が下りず、認められるまで3年かかったと言います。
真面目に生きていれば犯罪に手を染めない?
2022年、広域強盗事件が世間を騒がせたことがありました。若者がまとまったお金がもらえるバイトと聞いて応募し、詐欺や強盗に関わっていく事例があとをたたないのだと言います。背景として若者の貧困が浮かびあがり、「貧困と犯罪」をめぐる議論が起きました。 そこで多かった反応は、「まともに生きていれば」「真面目に生きていれば」犯罪に手を染めることはない、というもの。悲惨な環境で育っても真面目に生きて犯罪に関わらなかった人はいるのだから、生い立ちや境遇は言い訳にはならない、というのです。もちろんこういった意見は正論だと思います。一方で、犯罪に手を染める人は自分とは全く違う人間と切り捨ていいのか、と思うのです。 この本では、実際に受刑者が犯罪に手を染めるに至るまでの事例が紹介されています。実際に受刑者の診察にあたるおおたわさんは、生い立ちが犯罪に結びつく様を見たと言います。 矯正施設で診察を始めてからというもの、どんな風に生まれ落ちたか、どこでどうやって育ったかが人間にとってどれだけ重要かを思い知らされている。それが犯罪へと繋がっていくことを痛いほど教えられたのだ。人生が平等だなんて、まったくの嘘だ。裕福と貧困、明晰と暗愚、美形と醜悪、この世に生を享けた時点から、人間はすべての不平等の下に置かれている。己の努力によってそれを払拭できるひとなんて、ほんの一握りに過ぎない。 『プリズン・ドクター』(新潮社)より引用 じっくりとカルテの成育歴を読んでいると、ほぼ全例に家庭環境の問題が記載されていることに気づく。両親が健在で経済的にも恵まれている家庭はほとんどないと言っていい。 『プリズン・ドクター』(新潮社)より引用 家庭環境が複雑でもまっとうに生きている人がいる、というのはその通りですが、受刑者に虐待を受けたといった複雑な事情の人が少なくないという事実を知ると、支援があれば犯罪に手を染めずにすんだのではないか、と思わずにはいられません。