「御国の柱礎」「大現神天皇の稜威」――静岡の名門校で歌われていた「皇室賛美」校歌がたどった運命とは?
「義勇奉公」をうたう第2節
もうひとつ、静岡県立静岡高等学校(旧静岡中学校)の校歌の事例もご紹介しておきましょう。静岡中学校の校歌は、1916(大正5)年に東京音楽学校の吉丸一昌に作詞を、島崎赤太郎に作曲を依頼して制定されたものでした。 もともとは第4節まであったのですが、第2節には「義勇奉公」などという語が登場し、第4節にいたっては 御国の柱礎と なりし祖先の後継ぎて 大現神天皇の 稜威を四方に輝かせ と、皇室賛美を絵に描いたような歌詞になっていたため、第2節以降は歌わないことにして、第1節だけを2回繰り返して歌うことになりました。 ほかにも第1節冒頭の「岳南健児七百の」という歌詞が、生徒数の増加に合わせて「岳南健児一千の」と改められるなどの変更も行われていますが、当時の教員の回想によると、別に職員会議などの席上で正式決定した記憶はないということです。
学校によって異なった対応
このような形で歌詞の特に「あぶない」部分だけを書き換えたり、そういう部分をそっくり歌わないことにしたりするといった措置をほどこした学校はかなりありました。 もちろんこのような処理は弥縫策であると言われればその通りで、もともと歌詞は全体としてひとつの表現になっているわけですから、単語ひとつを変えればすむというものではありませんし、歌詞の一部だけ変えてしまうというのは作詞者に対して失礼だという議論だってあるでしょう。 特に変更を必要とする部分が大きいような場合には、いっそのことこれを機会に校歌を新しいものに作り変えようという話になって当然ですし、そうなれば、新たな時代にふさわしい校歌はどのようなものであるべきかといった根本的な問題から考え直してゆく必要も出てくるでしょう。 そのあたりの対応の仕方は学校によってもかなり異なっており、静岡高校のように特段の議論をすることもなく事務的な変更ですませてしまったような学校もあれば、かなり大きな議論に発展した学校もありました。 ※本記事は、渡辺裕『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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