「東京パフォーマンスドール」の真実を教えます 初代メンバー・木原さとみ&八木田麻衣の告白
「何がつらかったって、今ならAKB48とかいろいろな成功例があるけど、この頃は何もないからうまくいくかわからない。スタッフも誰一人わかってなかった。でも、始めた以上続けるしかない。それが一番きつかったです」(木原さとみ) 【画像】綺麗…!「東京パフォーマンスドール」たちの現在の姿…! モーニング娘。に始まり、ももいろクローバーZなど、今やアイドルは多人数がスタンダードと言っていい。その源流に位置するのがAKB48同様、小さな劇場公演から始まり、日本武道館2DAYS、最終的には横浜アリーナを札止めにした東京パフォーマンスドール(TPD)かもしれない。 ’90年の結成から’95年の卒業までリーダーとしてグループを牽引した木原さとみ(52)、同じく初期メンバーで、最年少14歳で加入した八木田麻衣(47)。二人の証言から多人数アイドルのパイオニアがいかにして誕生し、その使命を終えたか、あらためて追ってみたい。 ◆芸能界にペレストロイカを 木原が、同じ福岡県出身の松田聖子への憧れからアイドルを志したのは、小学3年生のときである。中学に入っても夢は潰えず、気持ちは高まる一方だった。 「親にはずっと芸能界入りを反対されていたんですけど、高校に進学したタイミングで父の東京転勤が決まり、嬉しいやら驚きやらで、東京生活が始まりました」 奇跡の連鎖は続く。上京早々、山下公園(横浜)でスカウトされ、テレビ東京の情報番組のレギュラーに抜擢。余勢を駆って『週刊少年チャンピオン』の読者投票「ミスチャンピオン」に応募すると特別賞を受賞。所属事務所も決まり、アイドルへの道は約束されたかに見えた。 「そんな頃、関係者からこう告げられたんです。『3人組のユニットでやる。名前はゴルビーズ』って。当時、ソ連のゴルバチョフ書記長が話題の中心で、それにちなんで命名されたんです。キャッチコピーは『芸能界にペレストロイカを』。さすがにこれはダメだと思いました(笑)」 ’90年に念願のCDデビューをはたすも、壮大なコピーほど話題にのぼらなかった。なお、このときの木原以外のメンバーが川村知砂と篠原涼子である。 間もなく、10代女子が次々とメンバーに入ってきた。関係者の口からグループの新しい構想が告げられた。東京パフォーマンスドールの誕生である。 「平日のレッスンではダンスや腕立て伏せ、腹筋を何時間もやりました。土日は原宿のライブハウス『ルイード』でライブ。でも、お客さんが全然入らない。あるときなんか、たったの7人(笑)。メンバー全員で、原宿の駅前でチケットを手売りしていました」 メンバーの脱退も日常茶飯事となる。 「人が足らなくて、ソニーの社員さんが加入したこともありました(笑)。そんな頃、一人の子供が、おずおずとやって来た。それが麻衣だったんです」 「クラスでも目立たない存在だった」という八木田麻衣がアイドルを目指したのは中山美穂がきっかけだった。『毎度おさわがせします』『ママはアイドル!』(TBS系)などのドラマを夢中になって観た。中学1年生のとき、立花理佐や鈴木早智子(Wink)を輩出したオーディション「第4回ロッテCMアイドルはキミだ!」に応募。決勝大会に残った。GPの栄冠は宍戸留美の頭上に輝いたが、ソニーの担当者から「レッスンだけでも受けてみない?」と誘われた。 半年後、レッスンを視察に来た関係者が「東京パフォーマンスドールっていうグループがある。結成して1ヵ月だけど、やめちゃう子がいるから入らない?」と声をかけてきた。そのグループがいかなるものか直接確かめるべく、原宿ルイードに足を運んだ。目撃したのは、今までにないダンスボーカルグループだった。 「率直に『カッコいい』って思ったんです。確かにお客さんは入ってなかった。でも、やってることは斬新。『私も参加したい』ってすぐに思いました」 かくして、14歳の八木田はTPDの最年少メンバーとなった。 「TPDのレッスンに行ったはいいけど、年上のお姉さんばかり。私の方を見てひそひそ話していて、最初は中に入れなかった。『怖い~』って思っていました(笑)」 「当時はメンバーの出入りが激しかったんで『また、誰か来たよ』なんて話していたんだと思います(笑)」(木原) このとき集まった初期のTPDのメンバーは木原、川村、篠原、米光美保、市井由理、穴井夕子、八木田の7名である。現在は女優として活躍する篠原はもちろん、プロゴルファー・横田真一夫人となった穴井、ヒップホップユニット『EAST END×YURI』のボーカルとして『DA・YO・NE』でミリオンヒットを飛ばした市井と多彩な面々に違いないが、当時はそうなる将来を感じる余裕はなかった。 ◆「お前らはアイドルじゃない」 「レッスンはつらい、お客さんは来ない。『こんなことを繰り返していて、はたして未来はあるんだろうか?』って真剣に悩んでいましたよ」(木原) 「その上、夏休みに入ると、公演が週末だけじゃなくて毎日になった。体力の消耗が半端なくて……」(八木田) この頃、リーダーの木原は心身ともに限界を迎えていた。その様子を最年少の八木田は鮮明に記憶している。 「あるとき、さとみちゃんたちが集まって小声で話してるんです。『どうする? 逃げる?』って。もう驚いちゃって」 そんな厳しい環境と裏腹に、風向きは次第に変わっていく。口コミで評判が広まり、観客の数が増えていったのだ。 「日ごと増えていきました。ウチは家族がよく観に来ていたので、妹が『こないだより間違いなく増えてるよ』なんてリサーチしてくれたりして」(八木田) そして、奇跡が起こる。夏休み公演の最終日である8月31日、観客が100人を超えたのである。 「信じられなかった。私にとって、TPDに在籍した5年間で一番感動した出来事は、武道館や横アリに進出したことより、原宿ルイードで100人達成したこと。それは揺るぎません」(木原) 夏が終わって週末公演に戻っても、客席は軒並み満員、それどころか、チケットが入手しにくくなる状況が生まれる。 「クラスメイトの反応に驚きました。ある日、スクールカーストの上位に属してる子が『あなた、芸能の仕事してるんでしょ? 芸能人に会えるの?』とか必死に訊いてきたりして(笑)」(八木田) それでもスタッフからは「お前らはアイドルじゃない。勘違いするな」と常々釘を刺されていたという。 「もともと、アイドルになりたくてこの世界に入ったのに『アイドルじゃない。だから笑うな』って厳しく言われていました。テレビ出演はしない。CM出演も最初は断っていたんだもの」(木原) 大阪パフォーマンスドール(OPD)、上海パフォーマンスドール(SPD)と姉妹グループも誕生したTPDだが、課題がなかったわけではない。とにかくCDが売れないのだ。 「方針転換でテレビやラジオにガンガン露出するようになりました。危機感でしょう。一度は断ったCMにも出演するようになって」(木原) 知名度は上昇し、’93年8月の日本武道館2DAYS、さらに’94年の横浜アリーナと大会場に超満員の観客を呑み込んだ。本来なら「さあ、ここから」となるが、皮肉なことに、メンバー単体の仕事が増えていく。事実、横アリ公演の直後に、篠原、米光、市井がTPDから卒業。メンバーは一新された。 「この次の年に『もう面倒は見られない。ライブも出なくていい』ってスタッフさんにはっきり言われました。グループが好きだったからショックでした」(八木田) 木原も’95年に卒業。ただ、「卒業した」という意識は皆無だという。 「その前から志村けんさんのコントとか、TPD以外の仕事もたくさん入るようになって、目が回るほどの忙しさでした。私にとっては卒業というより、自然にいなくなった感じがしています」(木原) TPDは’95年秋から新井雅をリーダーにメンバーを一新して再始動するも、とくにアナウンスなく自然消滅している。今なら考えられない結末と言っていい。 その後、木原はタレント活動をへて結婚。主婦業の傍ら、穴井や八木田ら往年のメンバーを招いてのダンスレッスンを自身のインスタグラムで公開している。 在籍中より4枚のソロシングルをリリースしていた八木田は、卒業後、ローリー寺西のプロデュースでソロシングルを2枚リリース。女優として映画やドラマに多数出演した。現在は主婦として多忙な日々を送りながら、時折、TPD関連のイベントに出演している。 「TPDとは何だったのか」、リーダーである木原さとみに改めて問うと、彼女は熟考の末にこう答えた。 「今にして思えば、あれは実験だったんでしょうね。メンバーもスタッフも、ファンまで巻き込んだ壮大な実験だった。そんな気がしています」 『FRIDAY』2024年4月26日号より 取材・文:細田昌志(ノンフィクション作家)
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