東京国際映画祭でジョニー・トーと入江悠が対談!“香港ノワール”の名手が明かす、誰も真似できない制作スタイルとは
現在開催中の第37回東京国際映画祭で10月31日、今年で5年目を迎えた「国際交流基金×東京国際映画祭 co-present 交流ラウンジ」が行なわれ、本年の「コンペティション」部門で審査委員を務める香港映画界の巨匠ジョニー・トー監督と、「Nippon Cinema Now」部門で特集上映が行われている入江悠監督が登壇。約1時間にわたってたっぷりと語り合った。 【写真を見る】入江悠監督がジョニー・トー監督の“伝説”に踏み込む!「脚本がないって本当ですか?」 1980年代から映画監督として活動を始め、これまで54本の長編映画を監督し、70本の長編映画をプロデュース。“香港ノワール”の名手として世界中の映画ファンを魅了するだけでなく、世界三大映画祭すべてで審査委員を務めたり、自ら短編映画祭を主催するなど後進の人材育成にも積極的なジョニー・トー監督。2010年にゆうばりファンタスティック国際映画祭で審査委員長を務めた際に入江監督と対面しているとのことで、今回じつに14年ぶりの再会。 冒頭の挨拶で入江監督は「『SR サイタマノラッパー』を撮った翌年にジョニー・トー監督がゆうばりにいらっしゃって、その時はとても緊張して喋れなかったのですが、監督が吸い終わった葉巻をこっそり家に持って帰って吸っていました(笑)。こうして隣の席に並んで座ってお話ができるなんて本当に光栄です」と敬意を表した。 ■「インスピレーションが湧かなければ映画は撮らない」 “対談”形式ではありながらも、トークの大半はジョニー・トー監督の制作スタイルについての話題が中心に。『ザ・ミッション 非情の掟』(00)で衝撃を受け、『エグザイル 絆』(06)をきっかけにジョニー・トー作品を遡って観るようになったという入江監督は、“脚本がない”というジョニー・トー監督の伝説の真偽について直撃。するとジョニー・トー監督は「私が撮った映画の中で、少なくとも10作品以上は脚本がありません」ときっぱり認める。 「まずキャスティングをする時に、このやり方でもできる役者さんを選びます。3分の1くらい撮影が進むと、皆さんなにを求められているのか掴んでくれます。また、スタッフの皆さんもなにを準備したらいいのかまったくわからない。ですが私の頭の中ではシーン全体がいつ始まっていつ終わるのかまでできていて、それがはっきりとしていなければ撮らないんです」と説明すると、「このやり方は、若い監督さんたちにはおすすめしません。できないと思います」と笑顔を浮かべた。 また、時には2~3作品を同時併行で制作することもあるジョニー・トー監督は「頭の中ではそれぞれの作品のスタイルは明確に区別していますが、インスピレーションが湧かない時には撮らない」と断言し、「いま撮影途中の作品があるのですが、クランクインして2日ぐらいであまり手応えを感じなかったので一度やめて、その後3ヶ月経ってまた1日だけ撮ってみてもダメで放置したまま。好ましくない時には放っておくのです」。過去に『スリ』(08)を撮った際には、その方法で撮影終了まで数年かかり、資金がわずかになってしまったことを明かした。 ■「香港映画界の状況はかなり変わってきている」 ここから、ジョニー・トー監督が1996年に設立した製作会社「Milkyway Image(銀河映像)」の話題に。「設立の前年にはなにも制作せずに、いままで自分が撮ってきた映画について振り返りながら、どういう映画を撮りたいのか、なんのために撮りたいのか、どういう監督でいたいのかなど反省していました」と振り返るジョニー・トー監督は、「映画界の中でどう生き残り、どう発展させていくか自分自身に言い聞かせるために会社を立ち上げました」と語る。 「この会社で作るものは、オリジナルのクリエイティブなものでなければならないと決め、そのような作品を撮ることができました」と話すと、今度はキャリア初期の1980年代のエピソードへと遡っていく。当時は大手映画会社で仕事をしていたジョニー・トー監督。「そこで映画を撮る条件が、商業映画で、笑える要素が必要不可欠と言われていました。個人的にはそういう作品は好きではないが、自分の監督としての技量を証明するためにやっていました」。 そんななか、手掛けたコメディ映画『僕たちは天使じゃない!』(88)が当時の香港映画の興行成績を塗り替えるほどの大ヒットを記録。「成功を受けて会社からは『撮りたい映画を撮っていいですよ』と初めて言われました。その時企画して撮ったのが『過ぎゆく時の中で』で、周囲からは『こんな映画観る人いない』や『儲からない』と散々言われたけれど、チョウ・ユンファが出ているから赤字にはならないと信じ、チャンスを逃すまいとやったら大成功を収めました」。 さらに同作の劇中の危険なレーススタントシーンの撮影時に、救急車を複数台待機させ、何人ものスタントマンが病院に運ばれながら理想的なシーンを作りあげていったエピソードを明かすと、「当時の香港映画は、多くの人の努力によって誕生したもの。特筆すべき存在はジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーであり、彼らのおかげで世界中で公開されるようになった」と、香港映画が特に輝きを放っていた時代に思いを馳せた。 「いまも映画をやりたい若者がたくさんいますが、我々が若かった頃とは状況がかなり変わってきています」と、香港映画界の現状を憂慮するジョニー・トー監督。「かつてあった映画会社や大きなスタジオはどんどんなくなり、政府は支援をしてくれるけれど、それだけではなかなか夢が大きくならない。映画のスケールもどんどん小さくなっていて、それでも若者たちを応援することに力を惜しまない映画関係者たちには感謝しかありません」。 そして「まもなく私は70歳を迎えるけれど、この後10年頑張れたとしても、そのあとはたぶんなにもできない。私としては、今後、香港映画に投資する人が増えていけば未来が明るくなるでしょう」と期待感をあらわにし、「時代や社会に対して言いたいことを、どこまで言うのか熟慮して撮ることがクリエイターとしての責任のひとつ。仮に香港で映画を作ることができなくなっても、才能があればどこの国でも撮れる。若い人たちは教養や知識、技術を磨き、まずは行動に出ることが大事だと思います」と次代の作り手にエールを送っていた。 取材・文/久保田 和馬