【今だからこそ、渋沢栄一の出番か?】幕末の激動期は「何を学ぶか」だけでなく「誰から学ぶか」が重要
島津久光の野心
次いで島津久光。久光は文久2年(1862)に1000人の藩兵を率いて上京し、朝廷の権威を借りて幕政の人事に介入しようとした。町田さんはこれを「幕末の大事件」と呼ぶ。以後朝廷の地位が急浮上し、西国雄藩が政局に参加し始め、京での尊王志士の活動が活発化するからだ。 「久光の狙いは何だったんでしょうか?」 「当時評価していた一橋慶喜と松平春嶽を幕政に登用することですが、この時点で久光の藩内基盤は脆弱でした。なので、異母兄の前藩主・島津斉彬の遺志を継ぎたい、“未来攘夷”の方針を継承して自分も中央政局に打って出たい、という野心もあったと思います」 結果は狙い以上だった。尊王志士を弾圧した寺田屋事件を機に、久光は孝明天皇の信頼を得て、突然政局の中心場面に躍り出たのだ。 続く生麦事件、翌年の薩英戦争(1863年)や禁門の変を経て、薩摩藩は独自の貿易・富国強兵策を取り、幕府に距離を置き始める。 「久光は抗幕、ついで廃幕に舵を切りました。でも武力ではなく、あくまで幕府の外交権を奪うことが目的でした。長州藩をパートナーにして倒幕に踏み切るのは、鳥羽・伏見の戦いの直前だったと考えられますね」 本書によれば、久光の幕末維新期の願望は一貫して「緩やかな結合の連邦国家」だった。外交は日本国が担うが、内政や個々の通商案件は各藩の独自性に任せるというもの。
西郷、大久保の裏切り
従って、明治維新早々の廃藩置県(1871年)は、新政府中枢の旧家臣(西郷、大久保ら)による「裏切り」だと感じた。 「新政府首脳には早く廃藩置県して国際法に準拠した政策を取らないと欧米列強に植民地化される、という焦りがありました。大久保は躊躇したけれど、最後は西郷の決断ですね」 かくして、新政府に居場所のなくなった久光は、明治9年(1876)に鹿児島に戻り、以後政治の舞台に出ることはなかった。 前述の平岡を通して一橋慶喜の家臣となり、探索活動中に久光配下の西郷とも会っていたのが「新1万円札の顔」渋沢栄一である。 明治時代に約500の企業を設立・運営し「日本資本主義の父」と称された渋沢は、幕末期に農民から尊王志士となり、武士や幕臣となり、維新を経て実業家になる前に官僚も務めた「時代の風雲児」だった。 「幕末期の渋沢は、志士時代に外国人居留地焼き討ちを計画したり、一橋家任官後も慶喜の将軍就任に強烈に反対したりと、随分過激ですね?」 「ええ、フランスに行くまではそうです」 渋沢は慶応3年(1867)1月、将軍慶喜の実弟、昭武のパリ万国博覧会使節団に随行して渡仏した。欧州各地を見て回り、フランスに2年近く滞在した。 「彼の地で政治家、財界人と親しく接触し近代国家の諸制度を学びました。元来、各種商売を営む豪農の出身なので、社会の新しいさまざまな仕組みに強い刺激を受けたんですね。だから、幕府崩壊も外から冷静に眺められたのです」 鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍敗退や江戸城の無血開城を、渋沢は遠い国のニュースとして聞いたのだ。 「要するに、幕臣だった渋沢は古い日本のいいところと世界の最先端の部分、両方を明治になって結びつけようとした、ように思えます。最近、渋沢が見直されているのは、今の時代も渋沢に学ぶものがあるからでしょうか?」 2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』に続いて、新1万円札に登場した渋沢。経済と道徳を融合させた著書『論語と算盤』や公益の重要性を説く合本主義も、SDGsや企業の社会的責任が問われる現在、注目されている。 「時代状況は、まったく逆ですけどね。そうかもしれません。幕末の混沌から未知の明治近代に向かう時、慎ましくしぶとく生き抜く渋沢の指針は注目されました。今の日本は、GDP3位から4位5位へと滑り降りて行く時期。でも、経済成長期のような、何が何でも金儲け、という路線はとれない。であれば、再度渋沢の出番かもしれませんね」 幕末の激動期に、何を学ぶかだけでなく、誰から学ぶかも重要なように思える。
足立倫行