ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (46) 外山脩
レジストロ植民地 やはり一九一六年、イグアッペで、桂に続いてレジストロ植民地の建設が、青柳郁太郎のブラジル拓殖の手で始まった。総合的、長期的な計画を備えた本格的な植民地であった。設計図の中には、市街地まで書き込まれていた。が、これも、順調には進まなかった。 前回と同様、先住民とのトラブル、さらに資金の欠乏が譬えようもない憂欝さで、連綿と続いた。 それでも、建設着手の年から入植が始まり、三年後には四百家族を数えることになる。この内の大半が日本からの直行組であった。ファゼンダでのコロノ生活を飛び越しての移民の植民地入りの始まりである。 この間、一九一七年、前章で記した様に、日本で移民会社が合併、海外興業が発足、ブラジル拓殖も参加した。青柳は現地担当役員兼ブラジル支店長となった。 星名・小笠原 同じく一九一七年、鰐の様な魁偉な顔をした中年の……というより当時としては初老の男が植民地造りを始めた。 名前は星名謙一郎といった。 鰐はポルトガル語ではジャカレイという。世間は星名にジャカレイという綽名をつけた。 この男は江戸時代の末、伊予(愛媛県)に生まれ、長じてハワイに渡った。そのハワイ時代、人を殺したという噂があった。 噂は事実であったようだ。輪湖俊午郎著『流転の跡』に、星名の直談として出てくる。ハワイに居た時、地元の邦字紙を所有したことがあり、それに書いた記事の件で、暴漢の襲撃を受けた。これを投げ飛ばし、首を締めたら死んでしまったという。 裁判を受け、正当防衛が認められたが、後味が良くなく、ハワイを離れ、米本土を放浪した。当時高名だったテキサスの米作王、西原清東の農場で働いたこともある。 放浪は長期に及んだ。その後アルゼンチンを経てブラジル入りした。 一九一二年、リオ郊外で米作りをして失敗、サンパウロに移って鉄工場で職工をした。その境遇を恥じず、有為の人士と交わった。無論、再起の機会を掴むためである。 一九一六年、この国で初めての邦字新聞『週刊南米』を発刊した。続いて翌年、植民地建設に着手している。 原生林で覆われた土地を分割払いで買い、入植者を募り、やはり分割払いで売るという商法であった。『週刊南米』で宣伝した。初めからそういう目的で発刊したのだ。 植民地造りはサンパウロ州の西南端部、現在のサント・アナスタシオで、手がけた。これがバイベン植民地である。 当時の詳細については資料を欠くが、十数年後の記録では、住民八十三家族、人口五一一名、所有面積合計一、八〇〇㌶、主作物カフェー、穀物となっている。 一九一七年、その東方、現在のアルヴァレス・マッシャードで、もう一つの植民地造りに着手した。ブレジョン植民地である。 土地の面積は六、七〇〇㌶であった。 この時、小笠原尚衛という北海道人が現れ、出資、協力している。 小笠原は一八七〇(明治3)年、高知県に生まれ、青年期、北海道石狩に移住、開拓に従事した。 一九一七年、すでに初老といってよい年輩だったが、日露戦争後に盛り上がった海外発展の気運の中、南米の一角に新日本を建設せんとする意気に燃え、単身、渡航した。 サンパウロ市内に滞在、近郊に植民地を建設しようと適当な土地を物色していた時、星名と知り合い、ブレジョン植民地の話に乗った──のである。 日本から一族その他十五家族を呼び寄せ、入植した。 植民地は後に四、八〇〇㌶を買い増す。 ただ、ここも幾多の苦難に見舞われた。 まず風土病に悩まされた。犠牲者の多くは幼児であった。墓地をつくって葬ったが、幽霊が出るという噂が生まれ、それが長く語り伝えられたほどである。 入植者の土地代の支払いが滞り、地主への支払いが危なくなったこともある。 小笠原の資金も底をついていた。