愛人3人とランボルギーニ…リーマンブラザーズから371億円を奪った男が語った〝カネに狂った日々〟
‘08年3月に発覚した、米投資銀行・リーマン・ブラザーズから371億円を詐取し、その半年後のリーマンショックの引き金の1つとなったといわれる大型詐欺「アスクレピオス事件」。主犯の1人として逮捕された齋藤栄功氏(62)は詐欺罪としては異例の懲役15年の実刑判決を受け、14年間服役した。年収1億円のエリート証券マンだった齋藤氏はいかにして犯罪に手を染め、破滅へと突き進むこととなったのか。そして、獄中で何を思い十余年を過ごしてきたのか。自らその半生を綴った『リーマンの牢獄』(講談社)が5月16日に上梓された。あらためて齋藤氏に事件当時の〝カネに狂った日々〟について聞いた。 【画像】「検事から取り調べを受けているようだ」と言い放った齋藤氏の表情 「昨日、丸紅が年初来最高値をつけていました(笑)。面白いなと思いますね」 この日、編集部に現れた齋藤氏は、テロッとした濃紺のリネンシルクの混紡のスーツに、白地に青いストライプのシャツと黄色いネクタイ、そして黒いストローハットという粋な姿だった。人当たりが良さそうな柔らかな笑顔で本誌の質問に答えた。 ◆丸紅社員から持ち込まれた〝美味しすぎる話〟 バブル崩壊後、’00年代初頭にかけてこれまで市場原理がなく、大蔵省(現・財務省)に守られていた金融業界には改革の波が押し寄せた。その激変する環境を間近で見てきた齋藤氏が、メリルリンチ日本証券を退職したあとに目をつけたのが「医療機関の改革」。’02年10月に三田証券に経営企画室長として入社した齋藤氏は資金調達や、経営コンサルなどを通じて、医療機関の抜本的な経営改革・再生を図る目的でアスクレピオスを立ち上げた。利益は順調に上がり始めた’04年5月にもちかけられたのが、当時丸紅メディカルビジネス部に所属していた山中譲氏からの「丸紅案件」だった。 この「丸紅案件」は大手商社である丸紅が保証することで、投資家から高利回りで資金を預かるもの。3ヵ月から半年ほどの短期間だが、年利に換算すると数十%、多い時には100%を超えるヤミ金並みの利息をつけるという〝美味しすぎる話〟だった。齋藤氏は山中氏とともにこのスキームを繰り返し、ついにはリーマンやゴールドマン・サックスを含めた投資家から計1500億円ほどを集めることに成功するのだが、実はこの「丸紅の保証」自体が真っ赤なウソだったことが後に判明したのが「アスクレピオス事件」だ。そんな話を齋藤氏は当初から怪しいとは思わなかったのだろうか。 「ゴールドマンも、メリルリンチの元MDも『商社の商慣習は年利ではなくて手数料なので、それは年利換算できない』と疑問を挟むことはなかった。例えばあるCTスキャナーが定価が1億2000万円だったとしても、丸紅が仕入れる金額が3000万円とか4000万円であるケースってあるのです。山中氏いわく『リース会社はその1億2000万円にリース料をかけてくるので、病院はそのリース料を払い続ける』と。 そういう話を山中さんがすると、私だけではなく、証券会社や投資銀行出身の人間を連れて来ても、みんな『う~ん』って聞いちゃうんです。日本の商業銀行の人間を連れて来ていたら、ひょっとしたら『それはちょっと……』という話になったかもしれないですが」 ◆元白バイ警官を〝替え玉〟に仕立てあげた もし、お金を出した誰かが丸紅本社へ、保証書が本物かどうかを内容証明を送るなどして問い合わせていれば、事はもっと早く発覚していたはずだ。だが、不思議なことに誰もそれをすることはなかったという。 「日本の会社で内容証明を送るって、宣戦布告なんです。『信用できないので確認させて下さい』ということですから。僕は『送れ』と言ったんですが『いや、丸紅には送らなくても良いよ……』ってなった。結局、担当者には内容証明を送っているんですけど、丸紅本社には送っていなかった」 結局、この「丸紅案件」は出資してもらったお金を正しく運用することなく、集めたお金の多くを以前の出資者の利子にあてる「ポンジスキーム」だったのだが、齋藤氏はどの時点でそのことに気づいていたのだろうか。’07年11月、齋藤氏は丸紅本社で行われたリーマンとの交渉のときに、知り合いの元白バイ警官を丸紅のニセ部長に仕立てあげて、交渉を成功させているのだが……。 「その時でさえ、用意された場所が、丸紅本社のメディカルビジネス部専用の応接室ですから。そこでリーマンと6人くらいでミーティングしたのですが、私はたまたま部長が都合がつかなかっただけだと思っていました。 この時点ではもうウソかウソじゃないかではなく、丸紅が逃げられるか逃げられないかを考えるようになっちゃっていたんです。たとえ案件がウソであったとしても、丸紅が責任を負わなくてはいけない筈だ、と。今にして思えば異常な状況だったと思います」 実はこの時点で齋藤氏はすでに〝カネの魔力〟に負けて、引くに引けない状況に陥っていたのだ。 ◆〝カネの魔力〟で闇落ち 「私も裏で現金を受け取っていましたからね。’07年の5月ごろ、税理士事務所で札束がぎっしり入った大型のスーツケースを渡されました。その少し前に交渉が成立していたゴールドマンから100億円の入金があったので、その分け前かと想像できました。 3億くらいの現金を運んだんですが、山中さんはそのとき『私は丸紅の社長の特命を受けているから』と言っていたので、こういう醜いシーンもあるかもしれないなと……。そう思いたかったんですよ。でもさすがに一般企業でこんな話はないですよね」 どこかで怪しいと思いつつも「丸紅案件」を進めていた齋藤氏が、足を踏み外したのはこの時点からのようだ。メリルで年収1億円だった時代に取り憑かれたカネの魅力に、理想を棄てて飛びついてしまったのだと語る。 「その当時はランボルギーニにも乗ったし、軽井沢の別荘地も買いました。愛人も3人ぐらいいて、それぞれにマンションを確保してあげたりもしていました。犯罪を犯す人って常に自己防衛だと思うんです。 一旦、安易な方法で手にしたお金を私利私欲のために使用してしまうと、たとえ犯罪に手を染めても、今度はその自己を守らなければならなくなる。私も一旦法外なお金を受け取ってしまい、女性に貢いだり、車を買ってしまうと、そこで成立した自分を守らなくてはいけなくなるんです」 犯罪に手を染めていると知りながらも、自分を偽り続けていた齋藤氏だが、’07年11月の半ば、ついに山中氏から「丸紅案件」の保証書が真っ赤なニセモノだったと告白される。うっすらとは感じていた嫌な予感が最悪の現実となったのだ。それでも、リーマンへの出資金の償還の期限が迫っていた。齋藤氏は何とかゴールドマンから金を引っ張って自転車操業を続けようとしたのだが、最終的に交渉は失敗に終わった。’08年2月にアスクレピオスの破綻は決定的となった。 3月にアスクレピオスが破産を申し立てて破綻したあと、山中氏は自首したが、齋藤氏は逃亡した。グアムや香港などに滞在するが、香港警察に拘束され帰国。6月16日に逮捕された。 ◆事件は「リーマンショック」の引き金となっていた 香港への逃亡直前には、明日をもしれない立場だったにも関わらず、齋藤氏は不思議な安堵感があったと語る。 「ポンジスキームやコンゲームの日々には、寝汗でシーツがびしょ濡れになっていました。その地獄から解放されたのです。それは拘置所・刑務所に於いても実感しました。何しろ、拘置所・刑務所でシーツがびしょ濡れになる様な事はございませんでしたから。人間の体は正直です、それが全てを物語っています」 実は齋藤氏が海外へ逃亡した3月28日の金曜日の夜はリーマンの命運が定まった日でもあった。この夜、リーマンCEOのファルド氏が投資家であるウォーレン・バフェット氏に資本追加の要請を持ちかけていた。だが、ファルド氏がそこで前週末にリーマンが日本で受けた詐欺被害について、一言も触れなかったことからバフェット氏は不信感を抱き、断ったのだ。この後、窮地に立ったリーマンはバフェット氏以上の救世主を見つけることができずに、半年後の破綻へと突き進んで行く。本人のまったく与かり知らぬところで、齋藤氏の事件はリーマンショックの引き金を引くこととなったのだった。 ‘09年9月、齋藤氏は懲役15年の判決を受ける。詐欺の最高刑である10年を大幅に超える経済事犯としては異例の重い処罰となった。371億円という巨額の被害にくわえて、齋藤氏が〝とある理由〟から、カネの使途について最後まで明らかにしなかったため、この量刑となったと思われる。その〝理由〟については本に詳しく書かれているので、ここでは割愛する。 ‘22年に仮釈放、現在は執筆活動などを行う齋藤氏は、どう思って『リーマンの牢獄』を書いたのだろうか。本人に聞いてみた。 「私がたまたま垣間見たのはいくつかの闇です。加害者=闇とするならば、加害者が何かを発信しなければ、加害者と被害者の、あるいは加害者と一般国民の立ち位置に、どのくらい距離があるのかも分からない。ネットで、『詐欺野郎、殺されて当たり前だ』と書かれたり、『死ね』とか書かれても、加害者が発信しなければ分からないものもあります。なので、批判があっても、僕は書き続けなければならないのです」
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