第93回選抜高校野球 石巻出身、柴田・横山副主将 被災地の思い背負い挑む /宮城
<センバツ高校野球> 創部35年目にして、春夏通じて初の甲子園に出場する柴田。東日本大震災発生から10年の節目を迎えた年に、夢舞台への切符を手にしたチームには特別な思いで試合に臨む選手たちがいる。3年生は震災当時、小学1年生。沿岸部に自宅がある選手らは被災した。横山隼翔(はやと)副主将(3年)もその一人だ。【面川美栄】 ◇「感謝、プレーで返す」 父隆弘さん(47)と1歳上の兄航汰さん(18)も同校の硬式野球部でプレーした野球一家。兄と共に地元石巻市の少年野球チームに入った。2011年3月12日の初練習を前にユニホームを着て、その日を待っていた。「やっと僕も野球できる」。しかし、前日に震災が起き、少年の思いは津波に流された。 震災発生後、近くの友達の母親に連れられ、兄弟たちと小学校から自宅に戻った。不安で庭にいると「逃げろー」と声が聞こえた。当時は津波と分からなかったが、兄弟らで無我夢中で走った。海から自宅までは約1・5キロ。黒い波が背後に迫り来ていた。丁字路にさしかかり、右に曲がったのが運命の分かれ道だった。左に行けば高台がなく、助からなかった。1日野宿し、水が引いて自宅に一時戻った時、通りかかった人に紹介されたダンスホールに避難した。 一方、以前、社会人野球の日本製紙石巻でプレーしていた隆弘さんはこの日、東京へチームの応援に行っており、帰路の高速バスで地震を知った。自宅近くまで戻ってきた頃、ラジオ石巻から妻の声が聞こえた。子供たちの行方が分からないと訴えていた。4日間、学校や避難所を捜すも一人も見つからずパニックになった。諦めかけ、ためらっていた遺体安置所に行くことを考えた5日目、周囲から子供たちが避難していることを聞いた。「お父さん必ず迎えに来るんだ」。そう信じて待っていた子供たち。震災から6日後に、ようやく父子は再会。「この子たちの顔を見た時はもう、忘れられないです」 自宅は約1・8メートル浸水した。だが、12日の初練習のためにバッグに入れておいた野球道具は浮いて、奇跡的に無事だった。6月に入り、グラウンドの泥は取り除かれた。「(野球が)できるっていう楽しみしかなかった」と、どこへ行くにも必ずゴムボールとグラブ、バットを持って行った。 「私のように、自分の子供に夢を見た人はいっぱいいると思う」。隆弘さんは震災後、息子たちに「お前たちは訳あって助かったのかもしれない。だから、今まで支えてくれた人に感謝する気持ちを忘れずにやりなさい」と話してきた。震災から10年という節目での出場に横山選手は「宮城の代表として、感謝の気持ちで一生懸命プレーで返せたら」と意気込む。 ◇兄の無念も胸に もう一つ、背負いたい思いがある。前チームで主将を務めていた兄航汰さん。新型コロナウイルスの影響で部活も一時できなくなり、夏の甲子園も中止に。チームを必死にまとめたが選手2人が抜け、「何のためにやってたんだろう」と吐き出すこともあった。 それでも新チームで副主将となった自分を「いつも一番近くで見てくれた」。新チーム結成直後は、練習試合で連敗が続きチームの雰囲気も良くなかったが兄にアドバイスをもらい、副主将としてチームを鼓舞してきた。 センバツ出場が決まり、兄からお年玉で買ったバットと打撃グローブを手渡された。「頑張れよ」。兄の思いをずしりと感じた。「昨年兄のチャンスが無くなった分、自分が思いを背負って頑張っていきたい」。父や兄、そしてたくさんの人の思いをこのバットでボールにぶつけるつもりだ。 ◇主将「ベスト尽くす」 きょう初戦 柴田は第93回選抜高校野球大会第5日の24日に初戦を迎え、第2試合(午前11時40分開始予定)で京都国際(京都)と対戦する。 遠藤瑠祐玖(るうく)主将(3年)は「メンバーはいい状態だが、試合では何があるかわからない。自分たちのベストを尽くしたい」と話した。ナインは23日、大阪府豊中市内で約2時間、軽めのメニューをこなして最終調整を行った。 主戦の谷木亮太投手(同)は「やってやるぞという気持ち」と意気込んだ。バッテリーを組む舟山昂我(こうが)捕手(同)は動画で研究を重ねており、「配球は任せろ」と言われたという。初戦に向けて「緊張して思い通りにいかないこともあると思うが、(気持ちを)切り替えて失点は3点以内に抑えたい」と話した。【面川美栄】