あの時代は「残酷だった」 小学生…あだ名は“女のなりかけ” カルーセル麻紀81歳、差別や偏見と“闘い”の人生
■同級生にラブレター 送った相手は“男の子”
隣に置屋さんがあって、芸者さんがいました。お祭りの日だけはお化粧して良いから、白塗りにしてもらって。みんな女だと思っていました。その日だけはできたんですよ。同級生が「おう!平原」なんて話しかけてくるんだけど、祭りのチンピラなんかは「あれ男か?男か?」なんて(驚いちゃって)。 ──祭りの日は楽しみだった? 楽しみでしたよ。だって堂々とできるんですもの。だから小学校のときは友達も結構いましたけど、男の子より、大体女の子と遊んでいました。 ──“自分は周りの男の子とちょっと違う”という感じはありましたか? ありましたよ。小学校の時も好きな同級生(の男の子)いましたから。ラブレターを送ったぐらいですね。「何で来たんだよ」って向こうは思ってるでしょうね。
■「私はこれになりたい」 ゲイボーイとの出会い
中学校に入った頃、浜村美智子さんの「バナナボート」という曲がヒットしていました。掃除中、教壇のうえで踊り出すと、当時の名前は「徹男」だったんだけど、同級生みんなが「てっこ、てっこ」と呼んでいました。徹男、とはみんなあまり言わなかったですね。 ──その後、美輪明宏(※当時は丸山明宏)さんも「メケ・メケ」で人気となりました びっくりしましたよ、「私と同じ人がいるんだ」って。私は自分だけだと思っていたんですよ。「なんで男が好きなんだろう、なんで男の子にときめくんだろう」って。中学2年生くらいだったけど、私は「メケ・メケ」とみんなに言われていましたけど、全然嫌じゃなかった。 ──ちょっと安心したところもありましたか? 姉が本を好きだったのでいっぱいありました。その中に、三島由紀夫さんの「禁色」という本があった。それを読んで、「こういう世界があるんだ」「あたしだけじゃないんだ」って。 その頃ちょうどね、昭和30年すぎくらいかな、日劇で「メケメケ・よろめけ」というのをやったんです。そこでゲイボーイがいっぱい出てきたんです。私はこれになりたいんだわ、って思いました。