”ドーハの悲劇”から30年 「今でも夢を見る」ラモス瑠偉が「一瞬だけ救われた」初めて明かす秘話
神様は乗り越えられる試練しか与えない――。今年66歳になったラモス瑠偉が大事にしている新約聖書の言葉だ。それでも’93年10月28日のラモスは、アル・アリ競技場の芝に座り込むしかなかった。 【未掲載カット】かっこいい…!日本代表の背番号「10 」を背負った男「ラモス瑠偉」素顔写真 「頭から離れない、今も。私が人生で初めてサッカーをやめようと思った日になった。帰国後10日間、家から一歩も出られなかった。魂が抜けたね」 そしてこう続けた。 「今でも夢に見ます。カズ(三浦知良、56、ポルトガル・UDオリヴェイレンセ)と2人でパスをして、相手を完全に振り切って最後にカズがゴールを決める。そんなシーンをね……」 今から30年前、日本代表はカタール・ドーハにいた。この地で行われていたアジア最終予選最終戦のイラク戦に勝てば、悲願のW杯初出場が決まる――試合は日本が2‐1でリード。アディショナルタイムに入ったわずか17秒後だった。イラクは右サイドのコーナーキックからショートコーナーを選択、カズがかわされて上がったクロスボールは森保一(55、現日本代表監督)の頭上を通過。相手FWのオムラル・サルマン(57)が頭で決めた。 もしあの17秒を守り切れていたら’94年、W杯米国大会のピッチに、ラモスの勇姿があったはずだ。 「いや、米国に行くつもりはなかった。代表はあの最終予選が最後、と決めていたんだ。あの時、私はもう36歳でアキレス腱も痛かった。次代を担う若い選手に譲ろうと思っていたから。たとえばドーハのときの日本代表は左サイドバックの都並敏史(62)がケガするともう代わりがいなかった。(左右サイドバックができる)市原の中西永輔(50)や鹿島のセンターバック秋田豊(53)らが代表に入って経験を積めばいい、と思っていたよ」 ラモスは「自分のためだけに生きてきたことはない」と言い切った。その原点は、家族だ。ブラジル・リオデジャネイロで5人兄妹の4人目として生まれた。税理士だった父親が、ラモスが12歳の時に急死。家計が一気に苦しくなった。’07年に82歳で亡くなった母、マリア・エジナ・ラモスさんが女手一つで育てた。 「7歳からアルバイトをしました。洗車、靴磨き。サッカーボールも小遣いを貯めて買った。その頃から好きなサッカーでプロになって、家族をラクにしたかった」 ◆「母のために家を建てたい」 高校時代はプロになるためにサッカーとアルバイトに明け暮れ、プロクラブを受け続けたが「細身」を理由に不合格。その後、サンパウロのクラブに入ったが、日本サッカーリーグ(以下、JSL)の読売クラブ所属の日系ブラジル人二世のジョージ与那城氏(72)にプロ契約を打診され、所属していたサンパウロのクラブをやめて、19歳で来日した。 「日本がどこにあるかも、わからなかったよ。でも日本で稼いで、母のために家を建てたかったんだ」 サッカー王国から来日したラモスだが、サッカー後進国・日本を見下すことはなかった。’68年メキシコ五輪で日本代表が銅メダルをとったときのエース釜本邦茂(79)とはJSLで対戦し、そのプレーに虜になり、ビデオを何度も観た。 当時、企業色が強いチームが大半を占めたJSLの中で読売クラブはプロ志向が強く、妬みや反発を受ける存在だった。’84年11月、古河電工戦で乱闘騒ぎが起きた。他の選手は2試合の出場停止だったが、ラモスはなんと4ヵ月近い出場停止処分を受けた。とうてい納得できなかったが「ここで日本に見切りをつけて帰ったら、他のブラジル出身の選手が来にくくなる」と歯を食いしばり、JSL時代にMVP2回、得点王2回、ベストイレブン6回など輝かしい実績を残した。 来日13年目の’89年に日本に帰化すると、翌’90年に日本代表に選出。その年にブラジルから帰国したカズとともに、’93年発足のJリーグや日本代表の主役になった。ドーハのイラク戦は、空前のJリーグフィーバーで沸いた5ヵ月後に起きた悲劇だった。 ドーハの悲劇についてラモスが積極的に話すことはなかった。ただ約4年前の’19年、ビーチサッカー日本代表監督をしていたとき、外国メディアとの会話で、一瞬だけ、救われた思いになった。 「ポルトガルとスペインの記者の口から、ドーハのときの日本代表の選手の名前がスラスラ出てきた。『ピッチの中で魂を持って戦った選手のほうが記憶にある。お前たちこそ、初めてW杯に行くべきメンバーだった』と。嬉しかったね」 ’99年に引退。’07年には監督として古巣・ヴェルディをJ1に昇格させた。その4年後に妻・初音さんをガンで亡くし、’15年に俊子さんと再婚するも、翌’16年に今度は自身が脳梗塞で倒れた。ピッチを離れても試練が降りかかったが、俊子さんの献身的な看護で、見事に回復した。 「これまで、いいこともつらいこともあったけど幸せだった。生まれたときから神様に見守られてきた人生だと思うよ」 ドーハでラモスとともに涙にくれた森保が今、日本代表監督を務める。くしくもカタールで行われた昨年のW杯で日本はドイツ、スペインを撃破した。 「森保も日本サッカー協会も、ドーハの時から30年間、日の丸を強くするためにやってきた。だから選手層が厚くなった。次のW杯は優勝しろっていいたい! チャンスがある、ではない。できるから!!」 森保ジャパンは9月、敵地でドイツ代表と再戦し、4‐1で圧勝。W杯に続く連勝でドイツの監督を解任に追いやった。神が与えた「ドーハの悲劇」という試練を乗り越え、日本代表は今や、欧州列強にも実力で勝つほどレベルが上がった。ラモスの″優勝宣言″を笑う者はもう、いない。 『FRIDAY』2023年11月24日号より
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