藤子・F・不二雄は“老い”の問題とどう向き合ったのか? 晩年の悲哀を描ききった『じじぬき』
NHK BSで放送中の「藤子・F・不二雄SF短編ドラマ シーズン2」。本日5月12日に放映されるのは、ある老人の死と「生き返り」を描く『じじぬき』(初出:『ビッグコミック』1970年12月25日号)だ。主人公の老人を演じるのは泉谷しげるで、イメージとしては原作にかなりフィットしている(じっさい、泉谷自身もインタビューで主人公は「得意分野」であったと語っている)。では、原作はどんな物語であるのだろうか。 主人公のガンさんは妻に先立たれ、長男一家(夫妻+息子+娘)と同居する老人。しかし、家族関係はあまりうまくいっておらず、長男の妻はわざとらしくガンさんの食事の席を用意しなかったり、ガンさんへの嫌味となるようなテレビ番組を大音量で流したりする。ガンさんも意固地になり、つい家族への態度や口調も厳しくなってしまう。近くに仲の良い友人もいないわけではないが、日常的なストレスは絶えないようだ。 そんなある日、またもや家族との口論になったガンさん。本来なら自分の味方になってくれるはずの息子からも、煙たそうな態度をやんわりととられる。やけくそになってか、雨の中を釣りに出かけるガンさんだが、そこで心筋梗塞でも起こしたのか、ぽっくりと命を落としてしまう。 リアリズムにのっとった作品なら、ガンさんの死の時点で「終」を示すマークがつくかもしれないが、むしろここからが『じじぬき』の本番である。ガンさんの魂は肉体を離れ、天国に向かう。「天に意思がある」とは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』における名言だが、まさに「天における意思」が、後半における物語の、重要な鍵となっていく。 天国では亡き妻に再会し、喜びにあふれた表情を見せるガンさん。夫婦水入らずの暮らしがまた始まり、ようやく心の平穏を得たかのようにも思えたが、下界のようすを見て心が揺れる。ガンさんのお通夜の席で、残された家族たちはその思い出を語り、「もしやりなおしができれば……」とこれまでの態度への痛切な反省を口にしていたのだ。それを見て感極まったガンさんは、天国の戸籍係に生き返りを要望。そうしてガンさんの棺はがたり。喜びにあふれる一家だが、はたしてその後は……。 藤子・F・不二雄のキャリアのなかで、老人問題を扱った作品としては、本作と『定年退食』の二作があげられる。『定年退食』における老人たちの晩年は、けっして明るいものではない。食糧不足をはじめとしたさまざまな難題に直面した近未来の日本は、一定の年齢を超えた高齢者への一切の保障を打ち切っている。いわばその「人生の定年」を迎えようとする主人公は、定年延長のくじが当選することに一縷の希みを託すが、当選はできない。そのうえ「定年」の年齢はさらに引き下げられ、主人公もまた、国家によって「不必要な人間」という烙印を押された人物のひとりとなってしまうのだ。 「わしらの席は、もうどこにもないのさ」 主人公は夕暮れの道を歩きながら、まだ納得のいかない同世代の友人・吹山にこのように諭す。これを「潔さ」とみるか、「あきらめ」とみるか。もちろん両方の側面をみることもできるわけだが、筆者としては、ここには後者の感情のほうを強く覚えてしまう。そして、この感情は『じじぬき』のなかにも覚えられるものだ。 『定年退食』の老人は、どちらかといえば穏やかで、周囲との調和を志向するタイプの人物で、『じじぬき』のガンさんは、積極的に自身を主張する、頑固一徹タイプの人物である。人物像は対照的ながらも、最後には「あきらめ」の道を選ぶことでは共通している。 話を少し前に戻す。先ほど「天における意思」によってガンさんが生き返ったことに言及したが、そもそもガンさんの死も、じつは「天における意思」によるものであった。ガンさんの死亡予定日はずっと先であったものの、下界の様子を見て、あまりにも不憫に思った亡き妻が、とくにお願いして繰り上げたのだと。妻の告白に対し、ガンさんは一瞬激高して彼女をひっぱたくものの、すぐに謝り、その手を取って再会を喜ぶ。 「いい話」のようには思える。だが、これを現実にありそうな例に敷衍させて考えた場合、どうなるか。周囲との関係に悩む老人に、本人に知らせないまま食事に毒薬や睡眠薬を混ぜ、死に至らせるようなことと大差ないのではないか。この場合、たとえ老人と親しい関係であったとしても、「これ以上苦しまずに済むように」というまったくの善意からであったとしても、その行為主が何らかの罪に問われることは避けられない。もちろん、本来は存在しない(少なくとも存在の証明はされていない)天国があることを前提としたフィクション作品である以上、現実的な法や倫理の問題をどうこう述べること自体が野暮だと言われればそれまでだが、これを無条件のうちに美談として受けとることには、どこか大きな陥穽があるように思えてならないのだ。なぜなら、これはガンさんが今後の現世で生みだしうるすべての可能性を放棄させる、いわば「あきらめ」の姿勢であるからだ。 同時に、この「あきらめ」に対して、藤子・F・不二雄は自覚的である。先ほど『定年退食』における「あきらめ」について少し言及したが、ここでの「あきらめ」は逆に考えれば、新しいシステムを補強する姿勢であるとも言えよう。老人たち、ひいては世間全体が老人を切り捨てる政策を容認することによって、いわば現代の姥捨て山は自明のものとなり、単なる法律上の文言の変化にとどまらず、社会の価値観もまたそれに沿ったものに変化していくであろうことが、『定年退食』のラストでは示唆される。 なにもそれは悲劇とは言い切れない。大きな組織や共同体のなかでは、その構成員の満場一致でものごとが進むというケースのほうが考えにくいだろうし、よりミニマムな、家族という単位における意思決定においてもまた然りである。むしろ日常においては、自分の意に沿わない事態に絶え間なく対峙して、細かな「あきらめ」をその都度覚えることがルーティンでもあるだろう(『じじぬき』ではたとえば、子どもたちの好物だからという理由で、ガンさんが嫌いなハンバーグが食卓に出されている冒頭のシーンが印象的である)。『定年退食』における「あきらめ」はどちらかといえば社会に対して向くものだが、『じじぬき』における「あきらめ」は、より日常的な視点に立脚しており、だからこそ読者にとっても身近なものに感じられる。 もちろん、どうしても許容できない不条理に対して個々人が声をあげることを否定するつもりはないし、それにより社会や組織、また家庭の動きが是正されるケースも無数に存在するだろう。ただ、生きるうえでは、目の前の不条理にどうしても折り合いをつけなくてはならない局面が、また無数に存在することも事実なのだ。『じじぬき』では、ひとつ目は妻による、ふたつ目は「生き返り」ののちのガンさん自身による、それぞれ異なった「あきらめ」を描くことによって、人が人生で対峙する不条理を鮮やかに浮かび上がらせる。 『じじぬき』の登場人物のなかで、「悪い人」は一人もいないと言っていい。みなガンさんのお通夜では、その死を悲しみ、本気で泣く。作中で、激高したガンさんから最後通牒を叩きつけられる長男にしても、自身の父と、ガンさんへの厳しさが目立つ妻との板挟みで苦悩している様子がうかがえるし、むしろ彼のほうに感情移入をする読者もけっして少なくはないだろう。 明確な「悪い人」がいなくても、どこかの綻びからまちがいは生まれうるし、そのような覚えは読者の誰にでもあるだろう。みな心のなかでは自分なりの道徳や思いやりを保ったままで、しかし、どうしようもないことへの「あきらめ」を覚えることで、誰かを傷つけ、また自身も傷つけられてしまう。 ラスト、すべてを受け入れ、微笑を浮かべるガンさんや老妻の姿には、おだやかな温かさとともに、人間が生きる上での悲哀もまた感じられる。それは『定年退食』におけるラストの主人公の微笑にも通底するものだ。年齢を重ね、相応の不条理を味わってきた彼らにとっては、それは身に着けるべくして身に着いた姿勢でもあっただろう。2作の執筆時、まだ30代であった藤子・F・不二雄が、枯淡の境地とも言えるこうした悲哀を描き切ったことに、改めて脱帽してしまう。
若林良