『春になったら』は“死”に対する価値観を変えてくれた “心に溶け込む”奈緒の自然体な演技
瞳(奈緒)と一馬(濱田岳)の結婚式が“3月25日”に行われると知ったときから、もしかしたら『春になったら』(カンテレ・フジテレビ系)の最終話は、この日に放送されるのかなぁと思っていた。冬にスタートした父と娘の物語は、春になったいま、ひとつのエンディングを迎えようとしている。 【写真】鼻にチューブをつけた雅彦(木梨憲武)と向かい合う瞳(奈緒) さまざまな名ドラマが誕生した冬クール。そのなかでも、筆者のイチオシは、最初から最後まで揺るがず『春になったら』だった。3カ月後に結婚する娘と、3カ月後にこの世を去る父。家族の始まりと終わりを描いたこのドラマは、“死”に対する価値観を変えてくれた作品だった。 大切な人が死んでしまうかもしれない。そんな現実を突きつけられたら、誰もが反発するだろう。「治療をしたら生き延びられるのではないか」「数パーセントしかない確率でも、生きる可能性があるのなら賭けてほしい」。そんなことを思って、大切な人を死から遠ざけようとする。 だから、『春になったら』がスタートしたとき、なんだかんだで雅彦(木梨憲武)は治療をすることになるんだろうなぁと思っていた。瞳も、たったひとりの肉親である雅彦が死んでしまうなんて、耐えられないはず。きっと、どうにか説得をして、治療をさせるのだろう、と。しかし、このドラマは“奇跡”を描く方向へは持っていかなかった。 生まれてしまった以上、誰もが確実に死を迎える。なにも、雅彦だけが特別なわけじゃない。佳乃(森カンナ)のように、瞳も一馬も、そしてまだ幼い龍之介(石塚陸翔)だって、遅かれ早かれ確実に死んでしまうのだ。だから、残された日々を大切にしなければいけない。ひとつも後悔のない人生を……なんていうのは無理かもしれないが、雅彦のように後悔を消していく作業はあとからでもできる。
『春になったら』で“味噌”のような役割を担っていた奈緒
『春になったら』が、わたしたちの心にスーッと溶け込んできたのは、瞳を演じている奈緒が自然体だからだと思う。変わり者の雅彦とのバランスが、本当に良かった。たとえば、雅彦が変なことを言い出したときの呆れたような表情や、恋人の一馬の前で見せるちょっぴり甘えたような目つき。台詞がないところでも、奈緒はしっかり瞳になりきっていて、同世代から見ても「こういう子、いるよね」とナチュラルに思うことができた。そのおかげで、わたしたちは『春になったら』の世界観により没入することができたのだと思う。 調味料にたとえるなら、本作で奈緒は味噌のような役割を担っていた。胡椒のように刺激的な雅彦をまったりと封じ込めながらも、自身も味わいを発揮する。奈緒は、作品によって土台を作る出汁にもなれるし、アクセントを加えるスパイスになることもできる役者だ。そして、砂糖のようにとびきり甘い女の子を演じることも。木梨憲武とのW主演を経験して、確実に幅を広げた奈緒が、次にどんな境地に挑むのかも楽しみだ。 さて、まもなく最終回を迎える『春になったら』。現実離れした大きな奇跡は起こさない本作のことだから、雅彦の死は確実に訪れてしまうのだろう。ただ、雅彦と瞳はこれまで小さな奇跡をたくさん起こしてきた。もう見ることができないと思っていたタイムカプセル。気まずくなっていた旧友の神(中井貴一)と、またあの頃のような関係に戻ることもできた。たくさんの小さな奇跡を持って、雅彦はあの世へと旅立っていく。 雅彦の余命を聞いたとき、「お父さんがいなくなったら、どうすればいいの?」と泣いていた瞳が、「もう、大丈夫だよ。わたしは」と笑顔で伝えられるようになったのは、きちんとお別れする時間があったから。後悔のない死、なんていうものはないけれど、瞳と雅彦は全力で後悔のない死に近づくことができた。悲しいはずの物語なのに、『春になったら』を観ていると温かい気持ちになれるのはなぜだろう。その答えは、3月25日の最終回を観たあとに分かるような気がしている。
菜本かな