高校サッカー“消えた天才”…あの得点王が明かす“モテすぎた青春”「試合会場は女の子だらけ」「バレンタインに軽トラ3台分チョコが届いた」
1987年度の高校サッカー選手権で7得点を挙げ、大会得点王になった平澤政輝(東海大一高)。華のあるプレーで、高校サッカー史に残る“スター選手”と記憶される。彼はなぜJリーガーの道を選ばず、表舞台から消えたのか? 元得点王のもとを訪ねた。【NumberWebインタビュー全3回の第1回/第2回、第3回へ】 【貴重写真】「正直モテすぎた」高校サッカー得点王、“消えた天才”平澤政輝の当時の写真&54歳になった現在の写真もすべて見る ◆◆◆
「武田二世」「サッカー界のマッチ」
1986年度の全国高校サッカー選手権で初出場初優勝を果たすと、翌年度も準優勝。黄と黒の縦縞のタイガージャージで旋風を巻き起こした東海大一(静岡、現・東海大静岡翔洋)。初優勝時には国見(長崎)との決勝で直接FKを決めたブラジル人留学生FWアデミール・サントスの存在が大きくクローズアップされた。一方、翌1987年度、7ゴールを挙げて大会得点王に輝いたのが当時高3のFW平澤政輝(54歳)だった。同学年のMF澤登正朗とともに2年連続で決勝に進出したチームをけん引した。 平澤は176cmと大柄ではなかったが、巧みなポジショニングと両足でのシュートを武器に選手権2大会で計10ゴール。甘いマスクで圧倒的な女性人気を誇り、同じく静岡の清水東出身で2学年上、のちに日本代表になった武田修宏になぞらえて「武田二世」、「サッカー界のマッチ(近藤真彦)」などとメディアで紹介されることも多かった。 1988年春、高校卒業後はトヨタ自動車に進み日本リーグ(JSL)でもプレーした。しかし1993年のJリーグ誕生後はサッカー界で平澤の名前を聞くことはなかった。それだけに往年のサッカーファンは、その名を懐かしく感じるかもしれない。
「毎日夜9時まで“居残り練習”した」
平澤自身は当時をどう振り返るのか。現在、平澤が住む静岡で話を聞いた。 ――1986年度の第65回大会は2回戦から準決勝まで、すべて3-0の勝利。決勝の国見戦も2-0と、無失点での優勝でした。 「当時、静岡には清水商、清水東、藤枝東、静岡学園と強豪が多く、全国より県予選を勝ち抜くのが大変だと言われていた時代でした。僕らが出る前の2大会、東一(東海大一の略称)は県決勝まで行きながら、選手権には出場できず。 一方、前年には清水商が優勝し、その前も藤枝東がベスト4と選手権に出場したチームは全国でもいいところまでいっていたので、僕らも少なくともベスト4まではいけるかなと思っていました。 個人的にいちばん印象に残っているのは、秋田商(秋田)との準決勝です。準々決勝の高知(高知)戦は絶不調で途中交代させられたのですが、国立競技場での初めての試合だった秋田商戦ではノボリ(澤登)のCKに合わせて先制点を挙げて、うれしかったのを覚えています」 ――高2のときから背番号10番でした。 「ちょうど2年の春ごろにレギュラーを掴みかけた試合で、ハットトリックをしたんです。そのときに誰も10番をつけたがる選手がいなかったので『じゃあ、10番をくれ』と。それで決まりました。 当時の3年にはのちにJリーグでもプレーした大嶽直人さんや内藤直樹さんがいましたが、望月保次監督からは“歴代でも最弱だ”と言われていた代でした。だから、先輩たちは毎日夜9時近くまで居残り練習をしていて、僕ら後輩が先に帰るわけにはいかない。おかげで練習はめちゃくちゃしました」
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