【サッカー日本代表 板倉 滉の「やるよ、俺は!」】第27回 板倉 滉が「プロ」になった瞬間。1年目の苦悩
■サッカー選手として進化した瞬間 そんなどん底の状況からどうやって這い上がれたのか。ひとつは、どんなにきつくても練習を休まなかったことだ。休めば確かに楽。でも、自分は幼少の頃から、休むという考えは持たないできた。 たまに〝ずる遅刻〟はしても、決して〝ずる休み〟はしなかった。一度でも休んだら、そこで完全に自分に負けたことになると思うから。 「継続は力なり」ではないが、全体練習が終わった後、毎日コーチに付き合ってもらい、最後まで残って個別練習に取り組んだ。基本である〝止める・蹴る〟や、1対1の守備を徹底的にこなした。全体練習と違って、周りに劣等感を抱かなくて済むのも救いだった。 先輩たちの優しさに助けられたことも這い上がれた要因だ。チームで一、二を争うへたくそであっても、ずうずうしいくらいに先輩たちへ「ごはん行きましょうよ、連れていってくださいよ」と声をかけ、一緒に食事をさせてもらった。そこで聞くアドバイスが成長の糧になった。 2年目を迎えると、少しずつチームに打ち解けてきたこともあり、積極性が出てきた。練習時には、当時の攻撃の要である(大久保)嘉人さんや(小林)悠さんにもファウルすれすれのスライディングをかましてボールを奪いに行った。 もちろん、嘉人さんも黙ってはいない。全身を使ってダイビングアタックしてくる。悠さんも激高して、「コノヤロウ!」と。でも、ひとたびピッチを離れればふたりとも面倒見は良く、優しかった。 悠さんは「滉、いいじゃん。もっとガツガツ来いよ」と声をかけてくれた。憲剛さんも、僕が落ち込んでいるときに「ちょっと来いよ」と一緒にジョギングしながら、いろいろアドバイスをくれた。当時の先輩たちは代表でも活躍、まさにトッププレーヤーぞろい。本当に恵まれていた。 公式戦デビューとなった16年5月25日・ナビスコ杯第6節、ベガルタ仙台戦は今でも忘れられない。試合直近でいきなり風間八宏監督(当時)から声がかかり、訪れたチャンス、めちゃめちゃテンパった。 前日練習はあまりの緊張で硬くなり、頭も体も働きが鈍って、プレーがちぐはぐになってしまった。風間監督からは何度も怒られて、いっそう不安になった。 だが、いざ試合に入ったら、確かな手応えを感じた。むしろ余裕を持たせたプレーもできた。ゲームを思いっきり楽しめたのだ。自分が選手として一気に進化できたような気がした。 練習を続けていたこと、何よりも先輩たちに支えてもらったことが大きかった。未熟ではありながらも、日頃からの蓄積が結果として表れた。 ふと思うときがある。現在の僕と全盛期の憲剛さんと組んだらどうなるのかと。例えば、僕がセンターバックとして構えて、ボランチに憲剛さんがいるという縦の関係性。今なら憲剛さんの言うことを瞬時に理解して即座に反応、いいゲームの組み立て方ができるような気がする。 日本代表では、北中米W杯アジア最終予選・インドネシア戦に続き、アウェーの中国戦(11月19日)が間近に迫っている。初心を忘れることなく、しっかり勝ち点をつかみたい。 構成・文/高橋史門 写真/AFLO