月光仮面主役のギャラはいくらだった?昭和30年初期テレビスタアの懐事情
「月光仮面」の現場の制作条件は厳しいものだったが、映画界の落ちこぼれたちが集まった現場では、皆が「国産テレビ映画」第一号を作っているのだという意欲と情熱によってがっちりとしたチームワークを築いていた。不眠不休のしんどい現場も、映画界で甘やかされていない若きスタッフ、キャストゆえに乗り越えられた。主演の大瀬康一氏に、さらに当時の記憶を掘り返して頂こう。 ※「【連載】「月光仮面」誕生60年 ベンチャーが生んだヒーロー」第9回(全10回)。連載第6回~9回では、映画評論家・映画監督:樋口尚文さんによる俳優・大瀬康一さんのインタビューをお届けします。
気になる主役のギャラはいくらだったのか?
―― これほどのハードスケジュールを強いられながら、大瀬さんが「月光仮面」でもらった当初のギャラはどのくらいだったんでしょう。 大瀬:俺はマネージャーもいなくて、とりあえず身ひとつ預かってもらってる立場だったけど、マネジメント料を引かれて、昭和33年の10分番組の時に7000円くらいだったかな。月火水木金で7000円/本ですよ。当時は東映の撮影所で普通の映画一本を5~6百万くらいで撮ってたんじゃないかな。『月光』の撮影は昭和32年暮れからやっていて、明くる33年に「一万円札」がに出たときにはもう俺のために出た、という感じだった。これで少しは生活できるかなと。今の芸能人の方はバラエティ番組に出るとけっこうお金なったりするから、恵まれてますよ。 ―― 大瀬さんがそういう金額だとすると、スタッフの方たちはいっそう厳しい条件だったのでしょうね。でもとにかくこれをやっていれば食えると。 大瀬:でも食うったって決して贅沢じゃないんですよ。本当に仕事ばかりで、晩飯といっても「はい、カツ丼の人、天丼の人」って聞かれて手をあげるだけ。バターを塗ったパンと牛乳だけで済ませることもあった。銀座の宣弘社のそばに三笠会館があって、そこのカウンターだけのコーナーでカレーライスにアイスクリームか何かが付いていた。ロケから帰ってきたら、食う奴はそこでパーッと食って来い、みたいな感じでした。みんなに贅沢しようなんて気持ちもなかったからね。でも、休みの日に小林社長に連れられて高級中華に連れて行かれたら、“えーっ、こんなに美味い中華が世の中にあったの? 俺は横浜育ちで南京街も知ってるけど、こんなもの食ったこともない。ああやっぱり何でも稼がなきゃだめだ”と思いましたよ。 ―― 今のように誰もが中途半端に贅沢を味わえる時代ではなくて、庶民に手の届かない高嶺の花の贅沢があった。そういうほうが夢を持てるんじゃないでしょうか。 大瀬:本当にそんなにモノがある時代じゃなかったからね。恐らく銀座のバーでも、ジョニ黒、ジョニ赤、ヘネシーのスリースターあたりを入れてくれ、なんて言ったらもうビッグですよ(笑)。まあ今思うと懐かしい、いい時代だよね。