大河「国盗り物語」ブームに沸いた長良川鵜飼 見物一等地なのに持ち腐れ「納涼台」閉鎖
1300年以上の歴史を誇る長良川鵜飼は、戦前から岐阜市の観光事業を支えてきた。戦時中は一時中断したものの、戦後間もなく復活し、昭和40年代には乗船客が30万人以上に達した。海外の要人が訪れるなどおもてなしの場としても利用され、風流な岐阜の川遊び文化を伝える役割を果たしてきた。 長良川鵜飼が観光鵜飼の色合いを強めたのは明治以降。明治30年代には、鵜飼遊船株式会社が観覧船の運航を行い、現在の観光鵜飼の原型が出来上がった。1927年に市の直営になった。 観光鵜飼は太平洋戦争の影響で5年間にわたって中止したが、47年に営業を再開。岐阜市史によると、復活当時の乗船客は年間3万人ほどだったが、55年には10万人を突破した。64年の東京五輪や65年の岐阜国体を契機に、70~80隻だった観覧船は130隻前後に増えた。 73年には岐阜市周辺が舞台となったNHK大河ドラマ「国盗り物語」のブームで、歴史に関心の高い中高年の観光客が急増。観覧船乗り場は、白い浴衣にげた履き姿の人で連日にぎわい、乗船客は過去最多の約33万7千人を記録した。バスの団体旅行など観光ブームで遠方からの客が増え、鵜飼の知名度は一気に高まった。 鵜飼は海外の要人を接待する場としても活用された。市史によると、昭和30、40年ごろの乗船客は外国人が約5%を占め、60(昭和35)年には5千人を超えた。戦前には英国の皇太子が鵜飼を観覧。喜劇王のチャプリンも戦前、戦後と岐阜を訪れ、鵜飼を楽しんだ。外交官やその家族らを招いた外交団招待鵜飼はシーズン中に2回行われ、国際親善の側面を支えた。 市民の楽しみ方も時代とともに形を変えてきた。53、61年には長良川の左岸の金華山麓の岩場に大衆鵜飼観覧所として「納涼台」が完成。岸から鵜飼を観覧できる場として人気を集めた。 一方、近くに駐車場がないため、車の普及に伴って利用者が減少。71年には閉鎖された。市史によると、76年には片方の観覧所の無料開放に踏み切ったが、客足は戻らず、87年の岐阜日日新聞(現岐阜新聞)の記事では、鵜飼見物の一等地の納涼台が活用されていない現状を「宝の持ち腐れ」と指摘していた。 市鵜飼観覧船事務所によると、納涼台の建物は当時のまま残っているものの、入り口は閉鎖されている。同事務所は「利用されていたころを知る職員は誰もいないが、当時を知る人の話では、にぎわっていたようだ」と話していた。
岐阜新聞社