ならば私たちはどう生きるべきなのか…日本哲学誕生から150年、この国の叡智が見つけた「最後の答え」
---------- 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。 ---------- 【画像】日本でもっとも有名な哲学者
日本哲学の特徴とは
「はじめに」で述べたように、本書『日本哲学入門』には、私がつねづね感じていた日本の哲学の歴史、その営みのおもしろさをできるだけ多くの方々にお伝えしたいという意図を込めた。そのために「経験」や「言葉」、「自己」、「自然」、「美」などのテーマを選び、それらの問題が日本の哲学の歴史のなかでどのように論じられてきたのかを概観した。その際、その歴史を網羅的に叙述するのではなく、とくに日本の哲学の特徴や意義がよく見てとれる点に焦点を合わせ、それを重点的に論じた。そのことによって日本の哲学の魅力をより明確に読者の皆さんにお伝えできるようになっていれば幸いである。 あらためて日本の哲学がもつ特徴やその意義について考えておきたい。もちろん日本の哲学といっても、以上で見たように多様な展開をみせており、その特徴を一つにまとめることはできない。しかし、その多くに見られる特徴として、たとえば思索の具体性、徹底性を挙げることができるのではないだろうか。 古代ギリシアの哲学者アリストテレスもその主著『形而上学』の冒頭で、「人間はすべて、生まれつき知ることを欲する」と述べているが、私たちには何かを知りたいという欲求がある。その欲求が私たちの日々の生活の根底にある。そして私たちは知を積み上げ、学問を作りあげてきた。何かを知るために求められるのは、私たちの思い込みや偏った見方を排除し、物を物として見ることである。見る私と見られる対象、主観と客観との分離がその前提となる。その上で対象をできるだけ正確に把握することが学問成立の条件となる。 物事を正確に把握するために、私たちは、対象を固定し、それを要素に分け、構造を明らかにしようとする。その操作が学問には必須であることは言うまでもない。しかし、そのように見る私と見られる対象とを分離し、分離された対象を固定化し、分割することで、物事はほんとうに把握されるのだろうかという問いもまた生まれてくる。