ロシアの怪僧ラスプーチン暗殺の真相とは、毒殺? 銃殺? 溺死? 暴力的な最期を再現
最後の皇帝の寵愛を受けた聖職者の暴力的な死の謎を追う(後編)
農民出身の謎めいた人物ラスプーチンは、ロシア王家の信頼篤い助言者だった一方、敵も多かった。1916年に起こった暴力的な彼の死の謎を追った後編。 ギャラリー:遺体の写真も、ロシアの怪僧ラスプーチン暗殺の真相とは 写真と画像23点 その夜、ユスポフはラスプーチンを迎える地下の小部屋の準備を整えた。色とりどりのランタンと燃え盛る暖炉の炎でほのかに照らされたその部屋は、美術品や骨董品、彫刻が施されたオークの椅子、黒壇のキャビネット、ペルシャ絨毯、白い熊皮の敷物で飾られていた。テーブルには、お茶用のサモワール(湯沸かし器)、ビスケット、ユスポフがラスプーチンの好みだと言う極上のケーキが用意されていた。 ラスプーチンが到着する前に、スホーチンが毒を砕いて粉にし、ラゾベルトがケーキの中に混ぜ込んだと言われている。ユスポフはまた、パブロビッチとプリシケビッチに青酸カリ溶液を渡し、ラスプーチンのワインに混入させた。 真夜中過ぎ、運転手に変装したラゾベルトが、ユスポフをゴロホバヤ通り64番地にあるラスプーチンの自宅まで送った。ラスプーチンの娘たちは、その夜、父は上機嫌だったが、何か気にかかることがあるかのように神経を張りつめているようにも見えたと回想している。 ラスプーチンはこの日のために着飾り、ヤグルマソウの花が刺繍された絹のシャツ(皇后が彼のために仕立てさせたもの)、ベルベットのズボン、磨き上げられたブーツを身に着けていた。髪は洗って櫛が入れられ、安物の石鹸の香りがしたと、ユスポフは回想している。 一方、モイカ宮殿に残ったパブロビッチとプリシケビッチは、上階でパーティが行われているかのような演出を施していた。ラスプーチン、ラゾベルト、ユスポフが側面の入口から宮殿に入ると、彼らの耳には上階で蓄音機が奏でる音楽が聞こえてきた。2人の若い女性も到着した。ラスプーチンは、イリナは後で地下室に会いに来るのだろうと考えていた。
こうなればもう銃を使うしかない
ユスポフはラスプーチンにケーキを勧めた。最初、彼は断ったが、渋々と一つ食べると、続けてもう口にした。何も起こらない。毒がなぜ効かないのか、ユスポフには理解できなかった。 そこで彼は、クリミアにあるうちのブドウ畑で作ったマデイラワインをぜひ飲んでほしいと客人を説き伏せ、グラスにこっそりと毒を混ぜ入れた。ラスプーチンはワインを「鑑定士のように」飲み、さらにもう少し飲んだが、不思議なことに、毒は何の効果も示さない。 そんな状態がしばらく続いた。ラスプーチンは、ギターを弾いて聞かせろとユスポフに要求した。彼はさらに多くのお茶を飲み、頭を垂れて目を閉じた。彼は疲れていたものの、2時間以上が経過しても、毒の効果は表れなかった。 この間ずっと、ユスポフの共謀者たちは上階で待っていた。動揺を深めるユスポフは、ついに上階へ行って彼らに相談した。プリシケビッチによると、ユスポフは必死の形相で「毒の効果と思われるのは、絶えずゲップをしていることと、少しよだれを垂らしている程度のことだ」と言っていたという。 3人は、こうなればもうラスプーチンを銃殺するしかないと決めた。 ユスポフが書き物机からブローニング拳銃を取り出して地下室へ戻ると、ラスプーチンは荒い呼吸をし、頭が重くて胃が焼けるように痛いと訴えていた。ラスプーチンが立ち上がったとき、ユスポフは銃を構えて撃ち、弾丸は彼の胸の脇に命中した。 大急ぎで下りてきたパブロビッチとプリシケビッチの目に写ったのは、熊皮の敷物の上に横たわるラスプーチンの姿だった。ラゾベェルトがラスプーチンの死亡を確認すると、共謀者たちは皆上階へと立ち去った。 不安が収まらないユスポフは、もう一度遺体を確認しようと地下室に戻った。ラスプーチンに近づいたとき、突然、その目が大きく見開かれた。「ヘビを思わせる緑色の目が、悪魔のような憎悪を込めてわたしを見つめていた」とユスポフは述べている。 突如として、ラスプーチンは超人的な力で立ち上がると、獣のような唸り声を上げてユスポフに襲いかかり、彼の喉をつかもうとした。毒を飲み、胸に銃弾を受けてなお、恐ろしい力を発揮してみせたラスプーチンだったが、そこでふいに仰向けに倒れた。 恐怖に震え上がったユスポフは、助けを求めて上階へ急いだ。今度はプリシケビッチが先頭に立ち、サベージ拳銃を手に下へ降りたときには、ラスプーチンはすでに脇のドアから雪に覆われた中庭に出て、苦痛にあえぎながら左の方へ向かっていた。 プリシケビッチは1発撃って外し、走りながら2発目を撃ち、またしても外した。ラスプーチンが膝で這いながら中庭の門にたどり着いたとき、プリシケビッチが発射した3発目が背中に当たった。その後、4発目にして最後の銃弾がラスプーチンの額に命中した。 パブロビッチ、スホーチン、ラゾべルトが、ラスプーチンの遺体の処理を引き受けた。彼らは重たい布で遺体をくるみ、ロープで縛った。それをパブロビッチの車へ引きずっていき、ネバ川のペトロフスキー橋まで行き、割れた氷の隙間に遺体を投げ入れた。彼らが家路につくころには、すでに夜が明けかけていた。 (※編注:本記事内の日付は、当時ロシアで使用されていたユリウス暦に対応しており、現在使われているグレゴリオ暦よりも13日遅れている)