今更ですが清宮で気になった。なぜJリーグにはドラフトが存在しないのか
こうなると選手たちに対していかに魅力的に映り、成長できると確信させる環境であるかが契約のカギを握る。選手たちも各クラブの練習に参加して、雰囲気を含めたフィーリングやハード施設などを実際に確認したうえで最終的に決めている。 たとえば山梨・韮崎高校から1995シーズンにベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)へ加入した中田英寿のもとには、当時12を数えたJクラブのうち、育成に主軸を置いていたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を除く11チームからオファーが届いた。 そのうち横浜マリノス、横浜フリューゲルス(ともに当時)、そしてベルマーレの練習に参加した末に昇格1年目のベルマーレを選び、主力の先輩選手たちを「なぜウチに来たのか」と驚かせている。 理由は2つ。高卒1年目から主力として出場できると中田自身が確信した点と、もうひとつは海外クラブからのオファーが届いた場合、すべてを開示する点にベルマーレのフロントが理解を示したからだという。実際、4年目を迎えた1998年7月にセリエAのペルージャへ移籍している。 早稲田大学への進学も視野に入れていた内田篤人(現ウニオン・ベルリン)のもとへは、清水東高校3年だった2005年夏の時点で、アルビレックス新潟、清水エスパルス、ジュビロ磐田、名古屋グランパス、ヴィッセル神戸、コンサドーレ札幌(当時)、そして鹿島アントラーズからオファーが届いた。 そして、各クラブの練習に順次参加。アントラーズでのそれを終えた直後に、クラブハウスを含めた練習施設と常勝軍団独特の厳しい雰囲気に魅せられたのか、清水東高サッカー部の監督へ「ここなら、たとえ試合に出られなくても、自分が成長できそうな気がします」と電話を入れている。 加入を決める時期も原則自由で、青森山田高校からアントラーズに加入した柴崎岳(現ヘタフェ)のように、3年生に進級する直前の2010年1月の段階で仮契約が結ばれたケースもある。 こうした歴史が積み重ねられてきたJ1では、24年間で9つの優勝チームが生まれた。最多の8度を数えるアントラーズはクラブのコンセプトが一貫している点で他と明確な一線を画し、2012シーズン以降の4年間で3度優勝したサンフレッチェ広島は、毎年のように主力が流出するなかで、他チームから適材適所で選手を補強したマネジメント力が奏功した。 つまり、自由競争のもとで新卒選手が獲得されてきた歴史においては、戦力の不均衡化という弊害は生まれていないと言っていい。むしろ問われるのは、外国人選手を含めた補強戦略やクラブの財力、育成年代を含めた若手選手に対する育成力となっている。 いまは全国高校選手権の都道府県予選や、各地域の大学リーグが佳境を迎えている。そのなかでも昨年度の初優勝に貢献した青森山田のMF郷家友太はヴィッセルへの、天皇杯で旋風を巻き起こした筑波大学のエースストライカー、中野誠也は中学、高校年代に下部組織でプレーしたジュビロへの加入がすでに決まっている。 (文責・藤江直人/スポーツライター)