「紳士たれ」の巨人に移籍しても変わらなかったタフィ・ローズの悪癖【平成球界裏面史】
【平成球界裏面史 近鉄編85】近鉄は決して「退場」の名物球団ではない。だが、平成野球の歴史をたどる上で、NPB史上最多の14退場を誇るタフィ・ローズを無視することはできない。平成8年(1996年)から平成21年(2009年)までの期間に、実働13年をNPBにささげた近鉄最強助っ人は「年1ペース」を上回る暴れっぷりを球史に刻んでいる。 【写真】アメリカでゴジラ松井との再会を喜ぶローズ 実はローズは平成16年(04年)の球団合併時には近鉄には在籍していない。近鉄在籍最終年となった平成15年(03年)は51本塁打で3度目の本塁打王、3年連続ベストナインに輝くもオフの残留交渉は難航。近鉄球団はローズの希望する複数年契約を受け入れず、交渉は決裂した。同年11月10日に退団が発表されると、手を挙げたのは堀内巨人だった。 「退場」から話はそれるが、近鉄がローズとの契約延長を渋った背景はどうだったのか。今思えば大赤字球団に高額年俸の助っ人を複数年にするなど、無理難題だったことは理解できる。ただ、これが合併の可能性があったから複数年契約に難色を示したかというと話は違う。オリックスとの合併報道が出た平成16年(04年)6月13日の時点で、合併の事実を認識していた球団関係者は3から4人のごく少数。ローズのことをおもんぱかったから複数年を拒んだわけでは決してない。 話は戻る。「紳士たれ」の巨人軍に移籍したところでローズの癖は変わらなかった。平成17年(05年)5月29日のオリックス戦だ。3―3の同点で迎えた延長12回、またもストライク、ボールの判定で激高してしまう。 合併球団のオリックスバファローズには近鉄時代の仲間もいた。だが、現場ではそんなことを気遣っている余裕などあるはずはなかった。二死二、三塁の絶好機。2ボール2ストライクから香月良太の内角低めを見極めたが、判定はストライク。結果は見逃し三振となった。 チームの勝利を逃すとともに、ローズとってはこの試合4個目の三振という惨状も相まってキレにキレた。「Why」と両手を大きく広げるジェスチャーとともに、佐藤純一球審に「◯ァック」を披露してしまい退場宣告。同球審は「◯ァックと言われた? そういうようなことです。言葉はどうあれ、私に向けて言ったので、暴言と判断しました」と説明した。 この時点でローズはNPB通算400勝のレジェンド・金田正一(国鉄~巨人、のちロッテなどで監督)の8度を抜き、9度目の退場を記録することになった。ここから先はローズの一人旅となる。 巨人に平成16、17年(04、05年)と2年の在籍期間を経て平成18年(06年)は米球界復帰。ただ、スプリングトレーニングを経てオープン戦でも結果が振るわず一度は現役引退の判断を下した。1年間は完全にプロリーグで試合に出場しなかった。現役選手の生きたボールを1シーズンにわたって全く見ないということが何を意味するのか、プロなら誰でも理解できるだろう。 だが、ローズは平成19年(07年)にオリックスに電撃復帰。一度は引退を決意したアスリートだけに「おとなしくなるのだろうと」予想する関係者もいたが、そんな期待はすぐに吹き飛ぶことになる。
楊枝秀基