広島・長崎投下の核、それはアフリカからやって来た コンゴの原爆ウラン鉱山…過去、そして今何が(前編)
ウランは主に、酸素と結びついた状態で地中に安定して存在する。シンコロブエ鉱山では、酸化ウランの鉱石が大量に確認されていた。 もともとはコバルトや銅の採掘が目的の鉱山だったらしい。1920年代初頭の鉱物発見で開発が始まったものの、1938年ごろには役目を終えてうち捨てられた。米国がウランに着目した時期は地下水や雨水だろうか、「完全に水没していた」(米軍の地質学者)。だが周囲には資源採掘の副産物の残土が山積みされており、その中に驚くほど高純度な酸化ウランが含まれていた。 1943年末には、米国は既に原爆開発に必要なウランのかなりの量を確保していたようだ。ナチス・ドイツと敵対するベルギーの鉱山会社が全面協力した。公文書には「1940年にコンゴからスタテン島に、酸化ウラン168万ポンド(約760トン)分の鉱物を運んだ」との記載がある。 アフリカ大陸から搬出する港は、1943年初めごろを境にロビトからマタディに切り替わったことが読み取れる。ロビトが位置するアンゴラは当時、連合国と枢軸国の間で中立の立場を維持したポルトガルの植民地で、情報がナチス・ドイツに漏れることを米国が恐れたためだ。ある米陸軍将校はグローブズ宛てのメモで「ロビトで米国のウラン輸送についてのうわさは出ていない」と報告。機密漏えいに神経をとがらせていた様子がうかがえる。
▽定説の根拠を探る 果たして広島と長崎に落とされた原爆の製造に使われたウランのうち、どれくらいがコンゴ由来だったのだろうか。米公文書を読み解くと、ある程度の推測が可能だ。 マンハッタン計画の中核、ロスアラモス国立研究所勤めの陸軍中佐は1943年5月27日付のメモで、第2次大戦中の原爆開発に必要なウランの確保が「1944年7月1日に完了する」との見通しを示している。そして、コンゴのウラン確保に全力を挙げるようグローブズに進言したルホフの1944年2月5日付のメモに、酸化ウランの生産地ごとの供給実績と見通しが記録されている。完了月の1944年7月まで見通しに沿って確保が進んだとの仮定で計算してみよう。 酸化ウランの供給源は(1)アフリカ(コンゴ)(2)カナダ(3)米国コロラド州(4)その他―の四つ。1944年7月までに米国が入手したとみられる量は計5391トンで、うちコンゴは3304トンと約61%を占める。カナダとコロラド州はそれぞれ約17%だ。研究や実験に費やされたものなどを差し引いても、人類に初めて降り注いだ核爆発のエネルギーの源は、やはり大半がコンゴ由来だったとみて間違いないだろう。
米国は戦後、新たな脅威であるソ連への対抗でシンコロブエを再整備し、コンゴが独立する1960年まで、この鉱山のウラン確保に注力した。 では米国が去った後、鉱山は過去の遺物として忘れ去られたのだろうか。現実は物語のようには終わらない。コンゴ南東部では当然、そこから現在に至るまで人々が生活を営んでいる。 米国によるウラン採掘が終わってから63年後、シンコロブエ鉱山へ続く青い扉を眺めていたまさにその時、私の横を中国語の書かれた巨大な工業用車両が何台も通り過ぎていった。後半では現地の今を報告する。