「このままでは邦楽は“浮世絵”になってしまう」音楽史をひも解いて見えたJ-POPのユニークさ<みのミュージック>
J-POPのユニークさの「正体」
―――なるほど。「ガラパゴスに収斂されていく」というご指摘で、J-POP好きで知られるマーティー・フリードマン(元メガデスのギタリスト)の「J-POPには“ふつうはこんな曲の展開はしないよね”というのがたくさんある」という言葉を思い出しました。みのさんはマーティーさんの言うJ-POPのおかしさやユニークさはどこにあると考えていますか? みの:それは僕なりに明確な答えがあります。基本的に日本語はリズムにおいて躍動感を出すのに向いていないんですね。一方、英語には子音がたくさん含まれていて小刻みにリズムを刻むことができる。だからシンプルなリフレインでもリズムが立っていて、コード4つだけとかを繰り返しても気持ちいいポップスが成立する。だけど、日本語だとせいぜいリズムを半拍前か後ろにずらすぐらいの味付けしかできないんですよ。 でも、ビートルズの「Let It Be」みたいに短いフレーズを繰り返すだけのサビは日本語では難しいんだけど、逆に一節が長いうねりを持って、感動の波を大きくしていくような方向にJ-POPは進化したと捉えています。その中で、マーティーさんが指摘されたように、ジャズ的なコードや部分転調とかディミニッシュとかオーギュメントとか、そういったスパイスの効いたコードがたくさん出てくる方向に進化したのです。
リアルな日本人の感覚が反映されている
―――1個の大きなうねりのメロディが感動を呼ぶ。これはJ-POPのアドバンテージであると同時に、歌詞がひとつの文章としてメロディと一緒に伝わりにくいという難しさも抱えていると思います。西洋のメロディとハーモニーに日本語をはめ込むこと、そしてその困難を経験することはJ-POPの進化の過程でメリットだった、それともデメリットの部分もあったと考えますか? みの:そうですねぇ……。西洋の音楽が入ってきたことでそもそも日本人のアイデンティティみたいなものがかなり希薄になっているのではないかとか、あるいは西洋こそが等身大の表現をできているんだとかいう感覚に陥りがちなんですけど、そういうことは全くない。日本人の等身大の感覚として、和洋折衷、そして同化している生活を送っているわけです。和洋、どちらに振り切っても違和感があるわけですよね。 温泉に行ってよかったと思ったりすることはあっても、ずっと着物を着て生活している人もいない、そういうリアルな日本人の感覚が反映されているのが今日の邦楽のあり方だと思うので、そこに明治期の歪みが色濃く残っているかというと僕はそうではないと思います。そういう歪みが大きかった時期はもちろんあるんですけど、だんだんと消化されていって、今は等身大のところに落ち着いているのではないでしょうか。