阪神・岡田監督、早大の先輩・藤本定義に並ぶ「阪神監督514勝」 藤本監督が率いて優勝した1962年の御堂筋パレードに参加した縁も
◇3日 広島1―2阪神(マツダスタジアム) 岡田彰布監督(66)が阪神の監督として球団歴代最多タイの514勝を記録し、1960年代に指揮した藤本定義の記録に並んだ。この日は佐藤輝の2本塁打などで広島に勝ち、今季の成績は36勝34敗2分け。藤本定義氏についてその足跡を追う。以下、敬称略。 ◇ ◇ ◇ 藤本は1904(明治37)年生まれで愛媛県出身。81年に76歳で死去した。岡田監督にとっては早大の先輩にあたる。 2人の接点は、藤本が阪神を2リーグ分立後の初優勝に導いた62年からあった。当時、幼稚園児だった岡田監督は、阪神の御堂筋パレードに参加。父・勇郎さんが当時、阪神の選手らと懇意にしており、オープンカーに「白いブーツで乗ったんは覚えてるわ」と懐かしそうに話したことがある。 藤本は松山商で全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)に投手などで出場を果たし、早大へ進んだ。プロ野球が始まった1936年に巨人の初代監督に就き、太陽や大映、阪急と監督を歴任。阪神では61年途中から65年まで、66年途中から68年まで監督を務め、その間に2度リーグ優勝を果たした。 91年に球団が発行した「昭和のあゆみ」によると、藤本の人物像について関係者は親愛の情を込めて「狸(たぬき)オヤジ、ヘソ曲がり、老獪(ろうかい)、天の邪鬼(あまのじゃく)」と語っていたという。家族を大事にする男である一方、シーズン当初は家人を寄せ付けず、自室に閉じこもって「トレーニングのメニュー、長期にわたる投手のローテーション。藤本はめんめんと書きつづけた。藤本邸には、いまもダンボール箱いっぱいに”藤本メモ”が残されている」と記されている。 64年は「奇跡の優勝」と呼ばれた。バッキー投手が最優秀防御率と最多勝(29勝)の大活躍。全日程終了間際に連勝街道を突っ走り、大洋を逆転。当時の遊撃手で、初めて監督として阪神を日本一に導いた吉田義男はかつて、こう述懐したことがある。 「相手は天下の三原さん。大洋の優勝は間違いないと言われたんです。阪神は終盤、大洋と直接対決が4試合あって、一つでも負けたら大洋の優勝というところでした。そんな状況から連勝したんですわ」 敵将からは阪神を見下すような発言もあったそうで、これが猛虎戦士を奮い立たせた。大洋側に「心の隙もあったんでしょうな」と振り返る吉田さんはこのシーズンの大洋を他山の石として、1964年以来21年ぶりの優勝を果たす1985年当時は「優勝」の言葉をタブーとした。 「勝つまで、何が起こるか分かりませんからな」と終始一貫「挑戦、一丸、力を出しきれ」と唱えた。岡田監督も昨年は「優勝」という言葉を「アレ」に置き換え、38年ぶりの日本一まで実現させた。まるで吉田の思考を踏襲するものだった。 2リーグ分立後、藤本から吉田、そして岡田と受け継がれてきた阪神の「優勝監督」。岡田は今年4月17日の巨人戦(甲子園)で吉田の勝利数(484勝)を抜き、今度は藤本を超える日を迎える。
中日スポーツ