2025年大河ドラマで注目! 歌麿や写楽を売り出した江戸時代の敏腕出版プロデューサー・蔦屋重三郎の編集力
NHK大河ドラマ『光る君へ』がスタートして早一ヶ月。来年(2025年)は主演:横浜流星、脚本:森下佳子の両氏による『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の放送が決定しており、時代は平安から江戸へと移行する。 主人公の蔦屋重三郎(以下:蔦重)は、寛延三年(1750年)生まれ。『浮世絵黄金期』と呼ばれる天明~寛政(1781年~1801年)期の出版界を先導した版元(出版社兼書店)として、また喜多川歌麿と東洲斎写楽という、浮世絵師四天王の内の二人を手がけた名プロデューサーとして知られている(あとの二人は葛飾北斎と歌川広重)。 ■『吉原細見』の改定で頭角を表す 蔦重は、吉原遊廓(現在の東京都台東区千束四丁目)で生まれた。六歳の時に、両親の離婚によって独り吉原に残され、引手茶屋(遊女を呼んで宴席などを行う茶屋)の養子となって下働きをし、二十二歳で吉原大門に続く五十間道にある義兄の店先を借り、貸本屋を始めた。 主に好色本の小売やレンタルを行っていたようだが、同時に鱗形屋孫兵衛が発行する『吉原細見』という、吉原遊廓内の地図や名称、遊女屋ごとの遊女の地位と名、茶屋や男女の芸者の名などを記したガイドブックも扱っていた。 二年後、蔦重は鱗形屋版の細見の改め、つまりは編集長を頼まれた。というのも、観光客や“一見さん”の多い吉原で、細見は放っておいても売れるため、古い情報のまま増刷を繰り返してしていたところ、細見の信用が地に落ちて売れなくなってしまったからだ。そこで吉原に精通し、出版物に詳しい蔦重に白羽の矢が立った、という訳である。 蔦重は細見を最新情報に改定するのはもちろんのこと、序文を当時大人気の浄瑠璃作家・福内鬼外に依頼した。その正体が平賀源内であることは、町の誰もが知るところで、実はこれが奇策の第一歩となった。 バイセクシュアルな男性が多い江戸において、源内は生粋のゲイであった。男色オンリーの人気作家が、女色の殿堂である吉原について書く。「何故?」と興味を引き、中身を読むと内容が是正されている。 この策で一気に細見の信用を取り戻した蔦重は、以降も年二回の改訂版を責任編集していたが、鱗形屋が盗作問題で咎めを受けたのを機に、自身で細見を発行できる権利(株)を取得し、発行人となった。 蔦屋版の細見はまず判型が違った。それまでは葉書サイズぐらいの横長で、一頁に一軒の見世が紹介されていたものを、約B5サイズの縦長に変え、道を挟んで一頁に上下二軒を紹介した。これによって、各頁が地図の役割を果たす上に、頁数を減らすことにも成功。 浮いた紙代で多色刷りの美しい外袋を作り、粋人・通人たちに持たせて、人々の興味を引くよう仕向けた。 これらの工夫で、圧倒的支持を得た蔦屋版の細見は、他店版を凌駕し、間を置かずして『吉原細見』は蔦屋の独占販売となった。 この売り上げで地盤固めができたことにより、蔦重は流行の半歩先をゆく斬新な書物を次々と刊行し、時代を牽引していくこととなった。 また同時に、廃れかけていた吉原を復興させるべく、遊郭から資金を集めて花魁の評判記を発行したり(出資を断った楼主の見世の花魁は掲載されないため、結果、遊女のランキングを入れ替えることとなった)、夏の一ヶ月間、吉原の辻々で見世物が行われる『吉原俄』というイベントの案内本や錦絵(多色刷り浮世絵版画)を出し、話題を呼んで客を集めた。 三十三歳で日本橋に『蔦屋耕書堂』を構える頃にはベストセラーを連発。幕府御用達の称号を手に入れる。蔦屋版の刊行物は常に注目の的で、現在では当たり前となっている次号予告や広告を、最初に本に載せたのも蔦重だと言われている。 アイデアだけでなく、蔦重は処世術にも長けていた。文化人が集まる吉原の狂歌サークル『吉原連』に積極的に参加し、人脈を広げた。メンバーには大田南畝や山東京伝、朋誠堂喜三二、恋川春町ら人気作家が数多く参加していた。 ■浮世絵師・歌麿の地位を不動のものに 当時無名だった浮世絵師・北川豊章という男に、喜多川歌麿という画号を与え、売り出したのも蔦重である。偶然にも音が一致しているが、喜多川は蔦重の本姓で、歌麿は蔦重の狂歌名である『蔦の唐丸(蔦が絡まるの洒落)』から由来している。 画力はあるがいまひとつパッとしない歌麿を、女房ともども店舗兼自宅に住まわせ、吉原連に連れてゆき、皆が即興で詠んだ狂歌に挿絵をつけさせるなどしてお披露目をした。 さらには挿絵付き狂歌本を売り出して、狂歌ブームを盛り上げた。実はこの頃はまだ、武家の副業が禁じられていることもあり、著作料という概念がない。 つまり蔦重は、彼らが詠んだ狂歌や戯作を、了承を得るだけで出版することができたのだ。その見返りが花魁を揚げての接待……というわけである。 歌麿の名を一躍有名にしたのは、業界初の多色刷り狂歌絵本『画本 虫えらみ』である。繊細なタッチで描かれた昆虫(爬虫類を含む)と植物の組み合わせを、凝りに凝った彫摺で表現した贅沢な一冊で、世間の話題をさらった。 また一方で、田沼意次時代で禁令が緩んでいたのを見計らって、歌麿初の春画集にして最高傑作の誉れも高い『歌まくら』を秘密裏に刊行した。 大判全十二図に摺られた枕絵は、海女と河童、オランダ人夫婦など、それぞれにシチュエーションも構図も様々で、以降刊行される数多の春画集とは異なり、情欲を掻き立てる目的ではなく、画力と木版画技術の凄さを見せつける、多分にアーティスティックな作品集に思える。 その後、山東京伝の風刺本で幕府から罰せられた蔦重は、それまで役者絵にしか見られなかった『大首絵(ウエストアップ、あるいはバストアップの肖像画)』の美女版『美人大首絵』を歌麿に描かせて大成功を収め、歌麿の地位を不動のものにした。 あまりの人気ぶりに眉をひそめた幕府が、絵に花魁の名前を入れることを禁じればコマ絵を読み解けば名前になる『判じ絵』で表現し、遊女を描くことを禁じれば、評判の町娘を像主(モデル)にするなど、“会いにゆけるアイドル”を仕立てもした。 写楽のデビュー作はとんでもない問題作 蔦重と歌麿は、このように次々と発布される幕府の禁令の裏をかき、丁々発止の快進撃を繰り広げた。またこの頃、蔦重は若き日の曲亭馬琴、十返舎一九を店で雇って育てるなど、先見の明もあった。 東洲斎写楽を売り出したのは、蔦重が亡くなる三年前の寛政六年(1794年)のこと。これ以上歌麿と組んで、美人画や春画で幕府を敵に回すのはまずいと見るや、本格的に役者絵を売り出すことに切り替えた。 ちょうど桐座・都座・河原崎屋の控櫓三座が揃うことで、五月興行に注目が集まるのに合わせての刊行だったが、すでに固定ファンが付いている役者絵の土壌に斬り込むに当たり、蔦重は大博打を打った。 通常、役者絵を買うのは贔屓筋ゆえ、絵師は役者を格好良く美化して描く。ところが蔦重は、誰も聞いたことがない無名絵師の写楽に、役者の素顔そのままの似顔絵を描かせ、背景を黒雲母摺で塗りつぶすという贅沢な手法で、一挙に二十八枚を同時発売した(本来、新人絵師の売り出しは多くて三枚程度)。 蔦屋の店先全体が、芝居小屋さながら、黒光りする背景に役者たちを浮き立たせたのである。 現代人には見慣れた作品群で、もはや役者絵といえば写楽のものしか浮かばない方も多いだろうが、当時、写楽のデビュー作はとんでもない問題作だった。 素顔のままの似顔絵ということは、不細工な役者は不細工なまま、老いた女形は老いたまま描かれたということで、芝居関係者や贔屓筋からはクレームが殺到した。……が、話題性は十分で、後発の蔦屋が役者絵を始める宣伝効果は十二分にあっただろうし、芝居に熱中する女性陣を快く思っていない男性陣には大いに受けた。 蔦重の仕事は、常に世間の注目を浴び、時代をリードしていた。 寛政九年(1797年)五月、蔦重は帰らぬ人となる。享年四十七。 蔦重の死因は脚気だと記されている。江戸に住む裕福な人間しかかからない病であったため、当時は『江戸わずらい』や『贅沢病』と呼ばれていた。接待三昧であった蔦重らしい亡くなり方だとも言える。 台東区東浅草にある正法寺に、復刻された墓石と、蔦重の狂歌の師である宿屋飯盛(石川雅望)による碑文が刻まれた石碑がある。そこには、蔦重の人となりについて『為人志気英邁 不修細節 接人以信(意欲的で叡智に優れ、気配りができ、信用できる人物である)』だと記されている。
車 浮代