「武士には介護休暇が」「男性が率先して親の介護」…目からウロコな”江戸時代の介護”の意外な実態
江戸時代の武士には「介護休暇」があった⁉
「江戸期の日本には『看病断り』といわれる介護届け休暇制度が、実は既にあったのです」 【衝撃の事実】「姥捨て」なども…江戸時代以前の介護はかなりカオスな状況だった⁉ こう語るのは長年、介護福祉分野に携わるライターであり、10月22日に『武士の介護休暇』(河出新書)を上梓した﨑井将之氏だ。これだけでも驚きの事実だが、大昔の介護の実態はさらに興味深いという。私たちのご先祖さまはどんな介護生活を送っていたのだろうか。早速、話を聞いていこう(以下、「 」はすべて﨑井氏の発言)。 「武士は必要な場合、藩に『看病断り』を申し出て休暇を得るという制度の存在が史料にも残っています。現代のような介護保険サービスは整っていないので、家族によるケアが基本でした。この点は武士、庶民ともに共通していたようです。 具体的な身体介護の方法は現代に似ていて、基本は食事・排泄の介助だった。入浴は、現代だと介護用の簡易浴槽や訪問入浴介護のサービス、あるいは寝たままや座った姿勢でも入浴できる機械浴などもありますが、当時は体を洗うのは手ぬぐいによる清拭が基本だったと思います」 介護施設などが存在しなかった江戸時代。しかし、あなどってはいけない。地域での介護体制まで整っていたという。 「もし同居人がいない、あるいは家族だけではケアの負担を抱えきれないときは、ご近所さんの力を借りていたと考えられています。庶民の場合、『五人組』が大きな役割を果たしました。『五人組』はもともと税金・年貢を納めているか、キリスト教のような異教を信仰していないかを庶民同士で監視させるための制度。しかし病気になった場合、お互いに助け合う役割もあったのです。 この点は当時の村役人の心得などを記した『農家慣行』という書物の中でも触れられています。そしてもし『五人組』も対応できなければ、村全体でケアしていく段階体制が存在したことも当時の史料から読み取れます」 ◆50歳は「高齢者」、60歳で「長寿のお祝い」 豊臣政権時代は武士も対象だった「五人組」だが、江戸期になるともっぱら庶民統制のために用いられ、基本的に武士階級は対象外だった。家業のしっかりした武士の家では帰属意識も強かったと考えられ、介護を担っていたのは、家族の中でも主に家長の男子だった。 「裕福な武士の家系に現代人が持つイメージとしては、身分の高い人であれば、家にいる妻や使用人などに介護を任せて、自身は何もしないなどでしょう。しかし当時の武士は、女性ではなく男性が率先して親の介護を担っていたのです。幕府が奨励していた孝行の思想が大きく影響していると考えられています」 当然、平均寿命や医療は現在のほうが進歩しているわけだが、江戸時代で介護対象となる人は何歳ぐらいで、どのような病気や症状だったのだろうか。 「江戸時代の高齢者の隠居に関する文献などを紐解くと、だいたい50歳くらいから高齢者と見なされていたようで、60歳に達すると長寿でお祝いするレベル。薬学者で儒学者の貝原益軒は60歳は下寿、80歳で中寿、100歳で上寿と述べています。 よって50代になると、老いによる衰えが引き金となって病やケガに見舞われ、要介護状態になる人が増えていったと考えられます。介護が必要となる病気について読み解く史料として『孝義録』があります。当時、親孝行などの善行を領主や藩が褒賞していて、この史料はそこで褒美を与えられた人々の記録です。東北学院大学の菊池慶子(筆名:柳谷)先生が行った仙台藩の『仙台孝義録』の研究では、親への介護で褒賞を受けた人に焦点を当てたデータが集められています。 それによると江戸時代に介護の原因となる病気として多かったのが、『中風』と呼ばれた脳卒中、そして主に白内障など目の病による盲目、認知症が多かったと考えられます。ただ江戸時代は認知症の認識がなく、『年を取ればみんなボケる』などといわれ、一種の加齢現象として扱われていました。ですので、認知症を引き起こしている原因が病として把握されにくく、当時のデータに拾われていませんが、それなりにいたとも推測できます」 現在は家族で介護、職業としての介護士など役割を担う人は多様化している。では江戸社会における介護する動機はどのようなものがあったのだろうか。 「武士、庶民ともに個人ではやはり介護をする側の愛情になってきます。家族の中できちんと老親・祖父母の世話をしないといけない意識が持たれていた。注目すべきなのは、儒教教育の影響です。 徳川幕府が公的な学問として広く普及に力を入れ始めたのが5代将軍・綱吉の頃。寛政期以降になると幕府が作る官学校、藩が作る藩校、庶民が通う寺子屋などで全国的に儒教・朱子学が教えられていたのです。それらは親孝行の概念を重視する学問で、親が老いて要介護状態になったときは、何を差し置いてもケアをするという意識をもたらしていたはずです」 﨑井氏はさらに遡り、古代や中世の日本人の介護まで調査を進めたが、江戸時代とは打って変わってそこにはカオスで悲惨な過去もあったのだという。 ◆「死=穢れ」という思想 「現代は老人介護の現場での虐待や殺人事件などいたましい出来事も耳にします。昔の日本はもっとマシだったのではないか。実はそんな思いから、過去の介護事情を調べましたが、実際、昔は良かったというわけでもなく、古代、中世にいたってはそのカオスぶりも垣間見ることになりました……。 古代、中世には、高齢者が介護放棄され見捨てられる逸話が物語などにたびたび登場します。死ぬことを穢れと捉えていた思想から、死期の迫った老人は家族でなければ、追い出されたり、放置され孤独な最期を迎えていたことも多かったと考えられています。姥捨て物語なども、中世期の書物の中に数多くあり、江戸時代ほどには儒教も広まっていないためか、高齢者に対する見方がさまざまだったのです。 もちろん身内による愛情からケアはあったでしょうし、仏教で親孝行をしないと地獄に落ちるといった教えもあった。また姥捨て山の話も、基本的には最後は捨てられた親が救われ、幸せになる結末が多く、事実としての介護放棄を示したものではないとの指摘が一般的です。とはいえ江戸時代より高齢者が酷い扱いを受けていたことが多かった点は否めないでしょう」 出発地点は、現代介護問題への自身の憂いもあったと明かす﨑井氏。では過去と現在を比べたときに、我々は何を見出すべきなのだろうか。 ◆「五人組制度」に学ぶ地域包括ケア 「現代では親への扶養に関する民法の規定があり、介護保険制度があります。ただ制度には財源が必要で、それは税金や若い世代も負担する介護保険料です。江戸期以前では助からないような境遇にある人がケアを受けることができる一方、日本の財源はひっ迫するばかりです。社会保障費を抑えるには公的サービスに頼りすぎず、家族や地域で介護するしかない。しかし家族のケアに頼りすぎると、若い世代の介護負担が増し介護離職の増加といった事態も招きます」 そこで一つの突破口となるのが、地域でケアする江戸時代の考え方だという。現在も地域包括ケアシステムの普及を国は進めている。だが、地域のイメージが現代では30分以内にケアを提供できる区域などが想定されているのに対して、江戸時代はもっと小さな単位だった。 「江戸時代は『五人組』のような、ご近所さんだけの集団が重視されていました。ご近所同士だと、見守りや声かけ、簡単な支援も日常で気軽にできます。またご近所付き合いの延長線上であり、もし将来自分が要介護になったら助けてもらうことにもなるので、『無償だと動かない』といった心情も起こりにくいでしょう。 ただ高齢化が進む現代の状況を踏まえると、江戸時代とは異なるひと工夫も必要です。現代社会だと若い世代は人口が少ないうえ、日中は家を離れて仕事に行き、社会そのものを支える必要があります。何より介護分野で働く若い介護士の数も圧倒的に不足しています。 そこで現代のお元気な高齢者に着目するのです。『現役世代に比べて時間的に余裕ができているアクティブな高齢者が、ご近所の要介護高齢者をサポートするような仕組みづくり』という視点が、今後日本では大事になると思います。ご近所の高齢者同士がお互いに支え合う仕組み・考え方は、1人暮らしの高齢者が増えている現状を踏まえても、今後の日本の介護において重要になるかもしれません」 まさに過去から我々への覧古考新だ。 『武士の介護休暇』(﨑井将之・著/河出新書)
FRIDAYデジタル