米東・古豪の系譜 第3部/5止 2000年代~現在 萌芽期 「殻」破り、大輪咲かす /鳥取
<第91回選抜高校野球 センバツ> ◆2000年代~現在萌芽(ほうが)期 結論からいえば2000年代、米子東は一度も甲子園の土を踏めなかった。05年から3年間、部長や監督を務めた県高野連前理事長、大森教雄(のりお)さん(49)=兵庫県加東市=は「力はあった。ただ、あと一歩『殻』を破り切れない時代だった」と振り返る。 大森さんは米東で控えの選手だった1986年夏に甲子園を経験した。母校に戻り部長に就任した2007年、春季県大会で8年ぶりに決勝へ進出した。久々に力のあるチーム。惜しくも準Vに終わったが、夏の鳥取大会に向け勢いづいた。 だが倉吉北との準々決勝、4-9であっけなく敗退。「『何か』が足りなかった。対応力、または指導者の想像を超えるアドリブ力だったのか……。その何かが最後まで埋まらなかった」と大森さん。今になって答えが分かりつつある。「情報があふれ価値観も大きく変わり、選手が情報を処理しきれなくなった時代」だったと。 一昔前は、部活と勉強に集中して難関大学に進むことを良しとする価値観が大半だった。その“学力主義”から脱却して“多様性”が求められる時代、選手は「野球の他に別のこともした方が……」と悩みがちになった。ネットで情報が簡単に得られる半面、自分たちに合っていない練習方法を続ける選手もいた。 今のチームを率いる紙本庸由(のぶゆき)監督は「何を得るために何を捨てられるか」を選手に徹底させて考えさせる。大森さんは躍進の大きな要因だと思っている。 〓 〓 89年と91年の夏、96年春と3回母校を甲子園に導いた名将、井畑浩次さん(59)=現米子工監督=は再び指揮を任された08~12年は出場は果たせていない。だが「甲子園に出た選手も、出なかった選手も懸命に練習に励んでいた」と振り返る。 紙本監督も「自分が就任した6年間だけで強くなったわけではない。懸命に練習に励み続ける『米東』の風土がずっと残っていた。指導は一つのきっかけにすぎない」と言い切る。 時代のなかで幾度も浮沈を繰り返し、23年ぶりに大輪を咲かせた米東。大舞台で若草色のユニホームがさんさんと輝く姿をみんなが待ち焦がれている。=第3部おわり(この連載は横井信洋、園部仁史が担当しました) ……………………………………………………………………………………………………… <米子東2000年代の主な成績> 2004年 秋季県大会4位、中国地区大会に6年ぶりに出場(初戦敗退) 07年 春季県大会準優勝 17年 夏の鳥取大会準優勝(26年ぶり決勝進出)