【犬たちの幕末史】幕末に犬連れで富士登山を強行したイギリス人公使と東禅寺襲撃事件の功労者となった犬
江戸時代に人間と一緒に伊勢参りをし、寺社の軒下で子犬を産んでのんびり暮らしていた日本の犬も、幕末から維新にかけて動乱に巻き込まれていく。もちろん、犬が積極的に動乱の中に飛び込んだわけではないが、常に人間のそばにいる限り、犬も時代の波と無縁ではいられない。今回は幕末の激動に巻き込まれた犬の話をしよう。 ■幕末の日本にやってきた犬とイギリス人公使 幕末から維新にかけては多くの事件が起きたが、その一つに「東禅寺襲撃事件」がある。イギリス公使館は当時、江戸高輪(たかなわ)にある東禅寺の中に設けられていた。 初代駐日公使のラザフォード・オールコックは、もともと外科医だった。しかし、リウマチで両手の親指が使えなくなったために、外交官に転身したのである。ちょうどイギリスがアヘン戦争で清朝を破り、南京条約によって五つの港を無理やりに開港させた頃だった。 オールコックは、そのうちの一つであった福州の領事に任命された。そこで、イギリスに都合のいい不平等条約の下、様々な業務で成果を挙げた。そして上海領事、広州領事と転任して租界の発展に貢献したのである。それのみならず、市場開拓のため再戦論を唱え、第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争を引き起こした強硬派だった。 この戦争で清朝は再び敗北し、さらなる不平等条約である天津条約や南京条約の締結で、アヘンを合法的に輸入させられることになった。まさに中国の半植民地化に尽力したことになる。オールコックだけでなく、幕末に日本にやってきたイギリス人外交官たちはみな、中国で辣腕(らつわん)を振るった強者たちだった。 その初代駐日公使オールコックが、実は大の犬好きだったのである。イギリスの上流層はみな犬好きだった。オールコックは『大君の都 幕末日本滞在記』という詳細な記録を残している。岩波文庫で、上中下三巻で構成されている。 遥かな極東の島国で暮らすために、オールコックはイギリスから犬を連れてきた。スコティッシュ・テリアで名前は『トビー』だった。万延元年(1860年)、オールコックは江戸城で14代将軍の徳川家茂と会見したあと、トビーを連れて富士登山を強行したのである。 当時、外交官だけは自由にどこでも行けたが、富士登山は前例がなかった。しかし、オールコックは権利を主張して譲らない。何しろ百戦錬磨なのだ。幕府はこれを止められず、監視を兼ねて同行する役人や駕籠かきなど総勢100人、荷物運ぶ馬が30頭という大行列での登山になった。 その帰り道、一行は熱海に滞在した。ここで悲劇が起こる。この頃、熱海には間歇泉(かんけつせん)があって、1日に数回、熱湯を噴き上げていた。それを不意に浴びて、トビーが命を落としてしまったのである。オールコックは深く悲しんだ。そして亡骸を、滞在していた本陣の庭の木陰に埋めてほしいと頼み、快諾された。 多くの人々が悲しそうな顔をして、トビーの埋葬を手伝い、僧侶は水と線香を持ってきた。トビーの不運と埋葬に際して、日本人が示した深い同情と親切さに、強硬派のオールコックも心を打たれる。 「日本人は、支配者によって間違った方向に導かれ、敵意を持つようそそのかされない時には、まことに親切な国民である」(『大君の都』中より) この出来事がきっかけで、オールコックは日本に好意を持ち始める。おそらく、日本で暮らした最初の西洋犬だっただろうトビーは、こうして熱海の地に眠ることになった。 翌文久元年(1861年)6月、オールコックは公用で出かけていた香港から戻り、長崎から入国した。そして日にちはかかるが、あえて陸路で江戸に向かうことにしたのである。地方の庶民生活を観察したかったからだ。オールコックは間もなく、2年間の休暇を取ってイギリスに帰国することになっていた。この旅にはオランダ総領事も同行していた。 ■東禅寺襲撃事件で代理公使を救った犬 オールコックが帰国している間、代理公使を務めることになっていたのはローレンス・オリファントだった。安政5年(1858年)に日英修好通商条約締結のため来日した、エルギン卿使節団の通訳だった人物である。 オリファントは、作家で旅行家でもあり、各国を回ったあと在日本大使館に勤務。後にはアメリカに移住し、神秘主義者になり、ユダヤ人のパレスチナ入植を推進しようとした。 幕末から維新にかけて日本に来た欧米人は、激動の人生を送った者が多い。そういう人間でなければ、未知の極東の島国には来なかっただろう。開港した横浜には、一旗上げようという野心家や有象無象も集まってきた。そこから洋犬が広まっていくのである。 オリファントはオールコックたちがまだ江戸に着く前、一足先に横浜から上陸して東禅寺に入っていた。一行が到着した夜、オリファントは風を通すため雨戸は開け放し、犬が入ってこないように障子は閉めて寝た。 オリファントは横浜から江戸に向かう途中、休憩して昼食を取った時、近くにいた野良犬に残りを食べさせた。するとその犬は東禅寺までついてきて、そのまま居ついてしまったのである。 事件は翌日の夜に起きた。オリファントが眠りに落ちようとした時、障子の外で寝ていた犬が突然、すごい声で吠え始めたのである。犬はけたたましく吠え続ける。明らかな乱闘の音も聞こえてきた。 銃はケースに入っていて使用人が鍵をかけており、剣の入った箱も開かなかない。オリファントは咄嗟に乗馬用の鞭(むち)を手に取り、ほの暗い廊下を正面玄関に向かって進んだ。 それは、攘夷派の水戸浪士14人、あるいはそれ以上の人数による襲撃だった。オリファントは鞭で応戦したが、刀で斬られて重傷を負う。そこへ長崎領事のモリソンが駆けつけて銃を撃ったものの、やはり斬られた。手当てをしたオールコックは、「護衛は何をしていたのか」と憤慨した。無理もない、護衛は150人もいたのである。水戸浪士たちは門の横の塀に梯子をかけて登り、侵入した。 医師のシーボルトも翌朝駆けつけて、重傷のオリファントと怪我をしたモリソンを見舞っている。オリファントは後遺症が残り、左手の指三本が動かなくなった。それで帰国することになった。 オリファントは日本の犬を高く評価している。来日以前、アジア諸国で見た犬は全般に惨めだった。しかし、日本の犬は「耳と尾を立てて傲然と走っていく(中略)彼らは種族として、これまで私が見たもっとも見事な街の犬というべきである」(『エルギン卿遣日使節録』) 重傷は負ったものの、オリファントはその「見事な街の犬」に命を救われた。犬は食事と寝場所をもらった恩を返して、水戸浪士に斬り殺されたのである。 日本人の護衛が役に立たなかったと怒り心頭のオールコックも、こう書いている。「おそらく、この犬は吠えて急を告げていたのだろう。この犬こそが、目を覚ましていた唯一の番兵だったのである」(『大君の都』下)
川西玲子