名匠への敬意、ウクライナ紛争、母国フィンランド…引退を撤回したアキ・カウリスマキが復帰作『枯れ葉』に込めた思いを探る
2017年、『希望のかなた』のプロモーション中に映画監督引退を宣言してから6年、アキ・カウリスマキは『枯れ葉』(公開中)で観客のもとへと帰ってきた。第76回カンヌ国際映画祭審査員賞に輝いた『枯れ葉』は、労働者3部作『パラダイスの夕暮れ』(86)、『真夜中の虹』(88)、『マッチ工場の少女』(90)に連なる一作。これまで厳しくも優しいタッチで貧しい市民の悲喜劇を作り続けてきた彼が本作で描いたものとは。映画評論家の遠山純生氏に、『枯れ葉』におけるカウリスマキの映画術や心情を考察してもらった。 ※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。 【写真を見る】『枯れ葉』にロベール・ブレッソン、小津安二郎、チャールズ・チャップリンへの敬意を捧げたと語るアキ・カウリスマキ ■陳腐とさえ呼べそうな、カウリスマキ流のすれ違いメロドラマ ヘルシンキで暮らす、中年に差しかかった感じの、少なくとももう若くは見えない適度にくたびれた独身の男女。オンコールワーカー(必要なときに呼びだされる労働者)としてスーパーマーケットに雇用され、棚に商品を補充する仕事をしているアンサ(アルマ・ポウスティ)は、賞味期限切れのサンドイッチを店のごみ収集容器から“盗んだ”(それに、貧困層の見知らぬ男に廃棄食品を分け与えた)ことを警備員に見とがめられ、解雇される。おかげでその日から、彼女は生活費の心配をするはめに。一方、アルコール依存の肉体労働者ホラッパ(ユッシ・ヴァタネン)は、勤務中に飲酒したのがバレてクビに。彼はなにごとも自分のしたいようにしかやらない。このことは冒頭近く、作業が一段落したあと「禁煙」表示を背にして一服する彼の姿に端的に示される。 物語にのみ着目すれば、この『枯れ葉』は、ごみ収集人の男とスーパーマーケットのレジ係の女のロマンスを描いたかつてのカウリスマキ作品『パラダイスの夕暮れ』の21世紀版・中年版焼き直しにも見える。骨子だけ抜きだしてみると、この2本はとてもよく似ているからである。その骨子とは、次のようなものだ。労働者階級の孤独な男女が知り合い、互いに惹かれ合う。けれども交際するうちに、2人の関係は困難なものとなり、彼らは別れることに。とはいえやはり、互いのことが忘れられない。女は男との再会を期すが、男はトラブルに遭って負傷し、会うことが叶わなくなる。やがて傷の癒えた男は女との再会を果たし、2人が手を取り合って生きていくことが暗示される。つまり、古臭くてほとんど陳腐とさえ呼べそうなすれ違いのメロドラマ。これをカウリスマキが料理することで、独自の魅力をたたえた「映画」になるのはいつものことだ。 ただし、主人公の男女がまだ若い『パラダイスの夕暮れ』の展開は、『枯れ葉』より多少起伏に富んでいるし、とりわけまだ20代と思しきヒロインは、レジ係の職をリストラで失ったあとに新たに雇用された衣料品店の経営者から言い寄られ、それをきっかけに同じ下層階級の恋人をいったん見捨てようとする。もっと歳を重ねた『枯れ葉』のアンサは、もはやたいして異性に期待を寄せないし、新たな恋の可能性を半ば諦め、半ば恐れてもいるようだ。彼女とホラッパの出会いのきっかけは、後者が年長の同僚フオタリ(ヤンネ・フーティアイネン)の誘いで赴いたカラオケバーである。1曲歌い終えたフオタリは、隣席の女性からその声のよさをほめられる。その女性はアンサの同僚である。2人が話し込むなか、各々の隣に腰かけたアンサとホラッパは、互いの存在を気に留め始める。別の男性客がシューベルトのセレナーデを歌い始めるなか、ホラッパはつと立ち上がって、物陰に隠れるようにして煙草を吸い始める。この間ずっと、幾度も遠慮がちに互いをちらりと盗み見る2人を画面として具体化するのは、ごく単純な切り返し撮影の連続にすぎないのだが、相手を一べつして目が合うたびに一方が目を伏せ、またおずおずと相手のほうに目をやるその繰り返しが独特の間合い、及び背景に流れる歌曲と相まって、初対面の男女の心理的機微を浮かび上がらせる。 ■カウリスマキ映画に欠かせない映画鑑賞デートと犬 こうしたシンプルながら精妙な描写は、カウリスマキが長年かけて培ってきた映画作法の賜物だといえる。その方法とは、次のようなものである。例えば、出来上がった映画がそうであるように、脚本のなかに書かれたセリフもごくわずかであるが、一切セリフのない役柄にいたるまでどのような人物であるかが書かれているそうだ。原則としてリハーサルはなし、各ショットはワンテイクしか撮らない。特定のリズムを画面に付与したいときだけ、カウリスマキが俳優たちに向けてみずから演じつつどうふるまえばいいかを示してみせる。とはいえセリフ同様、動きももっさりとしていて最小限だ。カウリスマキ映画の独特のリズムは、画面内のアクションとカッティングのタイミングともども、無類の音楽好きらしいこの作家の頭のなかで、撮影前にすでに出来上がっているらしい。なにしろ編集の必要がないくらいに効率的に撮っていくようなのだ。 デートといえば映画観賞なのも、いかにもカウリスマキである。アンサとホラッパは初デートで(カウリスマキの友人でもある)ジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』(19)を観賞したあと、映画館の前で既婚者の男女の恋と別離を描いたデイヴィッド・リーン監督の英国映画『逢びき』(45)のポスターを背にして、次の逢引きの約束をする。このときアンサは自宅の電話番号を記したメモをホラッパに手渡す。まだお互いの名前も告げ合わないまま約束を交わす、どこかズレた2人である。けれどもホラッパは、不注意にもそのメモを落として失くしてしまい、最後に別れた映画館の前で幾晩も彼女が通りかかるのを待ち続けるはめになる。そんな調子で、彼らはぶきっちょに互いの距離を縮めていくのだが、うまく関係を築けそうになったところで、ホラッパのアルコール問題が邪魔をする。酒が原因で父と兄を喪ったアンサは、恋人の悪癖に耐えられない。ホラッパのほうも、ルールなどどこ吹く風で好き勝手に生き続けてきた男だ。だから別離がそれに続く。再び訪れた無聊と孤独のなぐさめに、いまや工場労働者となったアンサは殺処分寸前の薄汚いが可愛らしい犬を引き取り、洗ってきれいにしてやったうえで飼い始める。犬もまた、ある時期以降のカウリスマキ映画にほとんど欠かせない存在だ。 ■ラジオから流れるウクライナの情勢にかつての母国の姿を重ねる 物語の時代背景は、現代のようであって現代ではない。ラジオからは頻繁に、2022年2月から開始されたロシアによるウクライナへの軍事侵攻のニュースが流れる。ちなみにこの映画は、同年6月に製作が発表され、8月から撮影が開始された。ところがクビになったアンサが仕事を求めて訪れる酒場の厨房の壁掛けカレンダーが示しているのは、未来の暦、すなわち2024年の後半期だ。ノキアの国ゆえさすがに主人公2人は携帯電話を使用するものの、映画にはダイアル式固定電話も映り込む。そもそもウクライナの現状を報道する媒体自体が、旧式の真空管ラジオやトランジスタラジオだ。それにここでもいつも通り、古典音楽からロックにいたる楽曲使用にこだわりを見せるカウリスマキは、ライヴ演奏やカラオケを除けば、いつもと違ってレコードプレイヤーは出てこなかった気がするものの、ラジオやレコード式ジュークボックスを通じて様々な音楽を鳴り響かせる。ノートPCが登場するのに、音楽配信サービスはおろかCDプレイヤーさえ、誰も使わない。とりわけ音楽の趣味もそうなのだが音楽聴取の手段も、20世紀で時間が止まっているかのようだ。 ところで先にも述べた、劇中繰り返し聞こえてくるウクライナ情勢をめぐるラジオ報道に話を戻そう。アンサは報道が始まってもすぐにラジオを切ってしまうか、ほかの番組に変えてしまうのだが、最初は無関心の表れと見えたこのふるまいも、やがて戦争の悲惨に耐えられないがゆえの遮断であったことが明らかになる。彼女のふるまいは、もちろんこの件を憂えるカウリスマキの心情の反響であるに違いない。と共に、同じくロシア連邦と境を接して歴史的にこの国と緊張関係にある自国フィンランドへの遠回しの言及でもあるだろう。だとすれば、カウリスマキがかつてサルトルの戯曲「汚れた手」(1948年パリ初演)を、原作に比較的忠実にテレビ映画化した事実をどうしても連想してしまう。 「汚れた手」は、第二次大戦末期の東欧の架空の国イリリア(ナチス・ドイツの同盟国で、東側諸国に併合されようとしている)を舞台とし、ドイツに対抗するべく右翼を含む他党との連立政権樹立を目論む党指導者を暗殺するよう命じられた共産主義者の青年を主人公とする作品だ。1948年、ヘルシンキに駐在するソヴィエト大使がこの「汚れた手」を“ソ連邦に対する狭量で敵意あるプロパガンダ”とみなし、これを上演禁止処分にするようフィンランド政府に圧力をかけたことでも知られる。イリリアのモデルとなった国は枢軸国として第二次大戦に参戦し、戦後はソ連ブロックに組み込まれたハンガリーだといわれている。けれども継続戦争で“枢軸の一員としてではなく”、しかしナチス・ドイツと“同時に”ソ連軍と戦い、その後ソ連と講和を結んで今度はドイツ軍を敵に回し、戦後はソ連に対する従属的な外交姿勢を通じて危うい綱渡りをやり遂げた、しかしソ連崩壊後に成立したロシア連邦との関係もいまだ安定していないフィンランドに重ねてみることも可能である。こうした文脈を確認したあとで、改めて映画のなかのウクライナ報道を思い返してみると、多少見え方が変わってくるはずだ。同時に、社会的にきわめて不安定な立場にある主人公の男女を、もっと大きな不確かさが取り巻いていることもはっきりするだろう。 ■ラストシーンから感じられるチャップリン映画の精神 そのような先行きの見えない状況のなか、数々の行き違いの果てに、アンサとホラッパは終盤でついに再会を果たす。場所は、アルコールより愛をとることを決意するも路面電車にひかれてしまい、やがて瀕死の状態から回復したホラッパの入院先の病院である。退院したホラッパを、犬を連れたアンサが待ち構えている。原則として登場人物の表情に変化のないカウリスマキ映画にあって、アンサはこのとき例外的なふるまいをする。ウインクして微笑むのである。劇中もう1カ所、彼女の表情が大きく変わる瞬間があるのだが、それがどこかはここでは言わないことにしておこう。 最後の画は、落葉に覆われた夕刻の広場を並んで歩いて行く2人と1匹の後ろ姿。ホラッパがアンサに犬の名を問うと、彼女は「チャップリン」と応える。ここでチャールズ・チャップリンの監督・主演作『犬の生活』(1918)と共に連想されるのが、ファシズムが台頭する不穏な世界情勢と、世界恐慌からの経済回復もいまだ果たし得ていないなかで封切られた『モダン・タイムス』(36)のラストだ。改めて説明するまでもないかもしれないけれど、この映画においては資本主義社会に適応できず路頭に迷った労働者と孤児の娘が出会い、数々の困難に遭ってくじけそうになりながらも、2人で力を合わせて未来へ向かって歩き出す姿が描かれている。カップルの不屈の意志と希望を象徴するのが、最後に示される、消失点へ向かって伸びていく一本道を歩いて行く彼らの後ろ姿だった。松葉杖をついて歩くホラッパとその傍らを行くアンサ、それに犬の「チャップリン」の姿は、手に手を取っていかにも仲睦まじく歩む『モダン・タイムス』のカップルよりだいぶそっけなく、かつどこか頼りなげに見える。けれどもここに託されているのがチャップリン映画の精神であっても、なんら不思議はない。 文/遠山純生