「最初の目標」「いつまでも憧れの場所」 福留さん、100周年の甲子園を語る
高校球児の夢舞台であるとともに、プロ野球阪神の熱狂的なファンが集まる本拠地として知られる甲子園球場は、8月1日が開場からちょうど100年の節目。プロ野球中日や阪神で活躍した福留孝介さんは、大阪・PL学園高時代に春夏3度、阪神でも主力として、甲子園でプレーした。そこに立つことが憧れで目標だった高校時代、ホームランを放って球場の熱気を一身に浴びたプロ時代―。野球の聖地への思い入れを、甲子園特有の浜風との付き合い方なども交えて語ってもらった。(共同通信=原嶋優) 【写真】かつて「世代ナンバーワン左腕」と呼ばれた元巨人の投手は、なぜ万引を繰り返したのか 涙ながらに… “月収”は約100万円
▽蔦を見て実感、PLのグラウンドよりずっと広かった (初めて甲子園でプレーしたのは1994年、高校2年の選抜大会だった)グラウンドに入る前に、蔦を見て「うわ、甲子園だ。甲子園に来たんだ」と感じました。最初に思ったのは「広いな」と。PL学園のグラウンドもなるべく甲子園と同じようにして造ってあった。ただ、それがラッキーゾーンがあった時代ぐらいの広さだったと思うので。ラッキーゾーンがなくなってからの甲子園なので、スタンドもあって、自分たちのグラウンドよりもすごく広く感じたのが第一印象。 「プロになる」とか(考える)以前に、いちばん最初に目標にする場所でした。明確にプロ野球選手になりたいと思う前に「甲子園に出たい」が先かな。全国の高校生が絶対にあそこに立ちたいと思って憧れる場所。(プロが本拠とする)他の球場だとそこまで思わない。甲子園だけですよね。 ▽ホームランの思い出と、天然芝の魅力
最初に甲子園でホームランを打ったのがバックスクリーン。(1995年選抜大会の)銚子商(千葉)戦で打った。そのシーンは今でも覚えています。 プロに入ってからは、タイガースに入ってサヨナラホームランを打ったりした時の球場の盛り上がり。それはまた、高校の時に打ったのとは違う。やっぱりそういうところは覚えていますね。ダイヤモンドを1周している時は1人の時間。そこで打たない限り、味わうことができない歓声ですからね。 (2013年に米球界から日本へ復帰。阪神を選ぶ)大きかったのは天然芝のグラウンドです。アメリカは天然芝の球場が多いので、人工芝で(故障せずに)もう一回できるかな、という不安がありました。天然芝でできるならプレーしたいというのが一番でした。(人工芝でのプレー後と)疲れは全然違います。 ▽浜風の影響は常に頭に入れていた 球場をぐるっと回っている(客席最上部の)旗は一球、一球ごとに常に見ていました。例えばホームチームが練習している時間と、試合が始まる時間とで風が変わっているんですよ。常にどういう風なのか気にしていたので。外野の飛球であれば、上がったら(放物線を描いて)斜めに落ちてくるけど、風に押されると真下に落ちてくる。だからボールに(対して)入る位置が変わってきます。ボールの上がる高さによっても違って、逆に風に乗って伸びることもありました。打者としては、これはスタンドに入ったなと思ったのが、全然手前で捕られたりもしましたね。
▽今後の100年へ いろんなことがあった中での100年。いつまでも野球人から常に憧れられる場所であると思うし、みんながプレーしたい場所だと思います。その中で、時代に合わせながら変わっていくかもしれないけど、聖地と呼ばれる場所。何歳になっても、もう一回甲子園の土を踏んでプレーしたいと思うんだろうなと。そういう場所であり続けてほしいです。